・・・おまけに堆肥小屋の裏の二きれの雲は立派に光っていますし、それにちかくの空ではひばりがまるで砂糖水のようにふるえて、すきとおった空気いっぱいやっているのです。もう誰だって胸中からもくもく湧いてくるうれしさに笑い出さないでいられるでしょうか。そ・・・ 宮沢賢治 「イーハトーボ農学校の春」
・・・停車場を出たばかりで、もうこの辺の空気が東京と違うのが感じられた。大きな石の一の鳥居、松並木、俥のゴム輪が砂まじりの路を心持よく行った。いかにも鎌倉らしい町や海辺の情景が、冬で人が少いため、一種独特の明るい闊達さで陽子の心に映った。「冬・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・暑くはないが、じめじめとした空気が顔に当る。 女中は湯帷子に襷を肉に食い入るように掛けて、戸を一枚一枚戸袋に繰り入れている。額には汗がにじんで、それに乱れた髪の毛がこびり附いている。「ははあ、きょうも運動すると暑くなる日だな」と思う・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・妻の顔は、花瓣に纏わりついた空気のように、哀れな朗かさをたたえて静まっていた。 ――恐らく、妻は死ぬだろう。 彼は妻を寝台の横から透かしてみた。罪と罰とは何もなかった。彼女は処女を彼に与えた満足な結婚の夜の美しさを回想しているかのよ・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・雨を催している日の空気は、舟からこの海岸を手の届くように近く見せるのである。 我々は北国の関門に立っているのである。なぜというに、ここを越せばスカンジナヴィアの南の果である。そこから偉大な半島がノルウェエゲンの瀲や岩のある所まで延びてい・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・そして暗い所を透かして見たが、なんにも見えなかった。空気はむっとするようで、濃くなっているような心持がする。誰がなんの夢を見るのか、われ知らずうめく声が聞える。外では鐸の音がの鳴くように聞える。 フィンクはなんとか返事をしなくてはならな・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・現世の濁った空気の中に何の不満もなさそうに栄えている凡庸人に対しては、烈しい憎悪を感じます。安価な楽天主義は人生を毒する。魂の饑餓と欲求とは聖い光を下界に取りおろさないではやまない。人生の偉大と豊饒とは畢竟心貧しき者の上に恵まれるでしょう。・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫