・・・という題と名前が書かれているだけで、あとは空白だった。私はその題を見ただけで、反動的ファッショ政治の嵐の中に毅然として立っている小説家の覚悟を書こうとしている評論だなと思った。このような原稿を伏字なしに書くには字句一つの使い方にも細かい神経・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・いや、それが春月のように今までの世界が空白になって、それからさきが彩られて──最も意義あることなのかもしれない。 ○ 昨年、私は一尺五寸ほどの桃の苗を植えた。それが今春花が咲き、いま青い実を結んでいる。桃栗何年とか云われる・・・ 黒島伝治 「短命長命」
・・・地面の空白を見るだけでも心持がのびのびするのである。こんなところで天幕生活をしたらさぞ愉快であろうといったら、運転手が、しかし水が一滴もありませんという。金のある人は、寝台や台所のついたカミオンに乗って出掛けたらいいだろうと思われるが、まだ・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・ 官製煙草が出来るようになったときの記憶は全く空白である。しかし西洋で二年半暮して帰りに、シヤトルで日本郵船丹波丸に乗って久し振りに吸った敷島が恐ろしく紙臭くて、どうしてもこれが煙草とは思われなかった、その時の不思議な気持だけは忘れるこ・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・それから急いで池の岸へ駆けて行って、頭へじゃぶじゃぶ水をかけたまでは覚えていたが、それからあとしばらくの間の記憶が全然空白になってしまった。そうして、今度再び自覚を回復したときは、学校の授業を受けおおせて、いつものように書物のふろしき包みと・・・ 寺田寅彦 「鎖骨」
・・・紙の右半はそれだけであとは空白であるが、左半の方にはややゴタゴタ入り組んだ街路がかいてある。不折の家は二つ並んだ袋町の一方のいちばん奥にあって「上根岸四十番不折」としてある。隣の袋町に○印をして「浅井」とあるのは浅井忠氏の家であろう。この袋・・・ 寺田寅彦 「子規自筆の根岸地図」
・・・不思議なことにはこれに関する自分の記憶が全く空白になっている。事によると自分が家の始末に帰る前にもう取り片付けに着手していた母の手で何かといっしょに倉の中へしまい込まれて今でもどこかに自分の所有物として現存しているのか、それとも雑品の中に交・・・ 寺田寅彦 「青衣童女像」
・・・従来はただ二つの物質間の摩擦係数さえ測定されればそれで万事が解決したと考えられていたようであるが、分子物理学の立場からすれば摩擦の問題はまだほとんど空白として残されているようである。もっとも最近における物質表面層の分子状態に関する研究の成果・・・ 寺田寅彦 「日常身辺の物理的諸問題」
・・・のほうはどんな物だか、何に使うのか、それについては自分の記憶も知識も全然空白である。 売り声の滅びて行くのは何ゆえであるか、その理由は自分にはまだよくわからないが、しかし、滅びて行くのは確かな事実らしい。 普通教育を受けた人間に・・・ 寺田寅彦 「物売りの声」
・・・そうして四十年近い空白を隔てて再び彼の歴史のページの上にバットやボールの影がさし始めたのはようやく昨今のことである。 昨年のある日の午後、彼は某研究所にある若い友人を尋ねたが、いつもの自室にその人はいなかった。そこらの部屋を捜しあるいた・・・ 寺田寅彦 「野球時代」
出典:青空文庫