・・・しかるに過去の経験は、旅が単なる「同一空間における同一事物の移動」にすぎないことを教えてくれた。何処へ行って見ても、同じような人間ばかり住んでおり、同じような村や町やで、同じような単調な生活を繰り返している。田舎のどこの小さな町でも、商人は・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・松の茂った葉と葉との間から、曇った空が人魂のように丸い空間をのぞかせていた。 安岡は這うようにして進んだ。彼の眼をもしその時だれかが見たなら、その人はきっと飛び上がって叫んだであろう。それほど彼は熱に浮かされたような、いわば潜水服の頭に・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ 天然美に空間的のもの多きはことに俳句においてしかり。けだし俳句は短くして時間を容るる能わざるなり。ゆえに人事を詠ぜんとする場合にも、なお人事の特色とすべき時間を写さずして空間を写すは俳句の性質のしからしむるに因る。たまたま時間を写すも・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ その冷たい桔梗色の底光りする空間を一人の天が翔けているのを私は見ました。(とうとうまぎれ込んだ、人の世界私は胸を躍らせながら斯う思いました。 天人はまっすぐに翔けているのでした。(一瞬百由旬を飛んでいるぞ。けれども見ろ、少・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・「これは三次空間の方からお持ちになったのですか。」車掌がたずねました。「何だかわかりません。」もう大丈夫だと安心しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつ笑いました。「よろしゅうございます。南十字へ着きますのは、次の第三時ころ・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・ 成程これは余分なルーブルをポケットに入れている人間にとっては油断ならぬ空間的、時間的環境だ。少くともここに押しよせた連中は二十分の停車時間の間に、たった一人ののぼせた売子から箱かインク・スタンドか、或はYのようにモスクワから狙いをつけ・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・空虚な空間をきって、あのおどろくべき美を創りだしている法隆寺壁画の、充実きわまりない一本の線をひきぬいて、なおあの美がなり立つと思うものはない。詩情の究極は人間への愛であり、愛は具体的で、いつも歴史のそれぞれの段階を偽りなくうつし汲みとるも・・・ 宮本百合子 「現代の主題」
・・・聴くと云うことは空間的感覚ではないからである。それを強いて空間的感覚にしようと思うと、ミュンステルベルヒのように内耳の迷路で方角を聞き定めるなどと云う無理な議論も出るのである。 お松は少し依怙地になったのと、内々はお花のいるのを力にして・・・ 森鴎外 「心中」
・・・於けるが如く、プロットの進行に時間観念を忘却させ、より自我の核心を把握して構成派的力学形式をとることに於て、表現派とダダイズムは例えば今東光氏の諸作に於けるが如く、石浜金作氏の近作に於けるが如く、時間空間の観念無視のみならず一切の形式破壊に・・・ 横光利一 「新感覚論」
・・・ 彼らの眼前に開いた大きい薄暗い空間は、これまでかつて彼らの経験しないものであった。そこには彼らが山野にさまよい蒼空をながめる時よりも、もっと大きい「大きさ」があった。彼らの眼には、天をささえるような重々しい太い柱が見える。それが荘厳な・・・ 和辻哲郎 「偶像崇拝の心理」
出典:青空文庫