・・・ふと相手に気がついて見ると、恵蓮はいつか窓際に行って、丁度明いていた硝子窓から、寂しい往来を眺めているのです。「何を見ているんだえ?」 恵蓮は愈色を失って、もう一度婆さんの顔を見上げました。「よし、よし、そう私を莫迦にするんなら・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・やがてその二階の窓際には、こちらへ向いたらしい人影が一つ、朧げな輪廓を浮き上らせた。生憎電燈の光が後にあるから、顔かたちは誰だか判然しない。が、ともかくもその姿が、女でない事だけは確かである。陳は思わず塀の常春藤を掴んで、倒れかかる体を支え・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・その女髪結の二階に間借をして、カッフェへ勤めている間のほかは、始終そこに起臥しているからである。 二階は天井の低い六畳で、西日のさす窓から外を見ても、瓦屋根のほかは何も見えない。その窓際の壁へよせて、更紗の布をかけた机がある。もっともこ・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・――この硝子窓の並びの、運動場のやっぱり窓際に席があって、……もっとも二人並んだ内側の方だが。さっぱり気が着かずにいた。……成程、その席が一ツ穴になっている。 また、箸の倒れた事でも、沸返って騒立つ連中が、一人それまで居なかったのを、誰・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ この羽織が、黒塗の華頭窓に掛っていて、その窓際の机に向って、お米は細りと坐っていた。冬の日は釣瓶おとしというより、梢の熟柿を礫に打って、もう暮れて、客殿の広い畳が皆暗い。 こんなにも、清らかなものかと思う、お米の頸を差覗くようにし・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・眼を開くと、窓際に突き出た青い楓の枝が繁っている。硝子窓を透して、青い影が湯に映っている。五六月頃の春の初めには、此の山中にも、うす緑色の色彩は柔かに艶かにあるものをと夢幻的の感じに惹き入られた。 昼過ぎになると、日は山を外れて温泉場の・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
・・・彼は窓際に倚って風狂というものが存在した古い時代のことを思った。しかしそれを自分の身に当て嵌めることは堯にはできなかった。 五 いつの隙にか冬至が過ぎた。そんなある日堯は長らく寄りつかなかった、以前住んでいた町の質店・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・「おや、君等もやられたんか!」窓際にいた留吉は、障子の破れからのぞいて、びっくりして叫んだ。 そこには、他の醤油屋で働いていた同村の連中が、やはり信玄袋をかついで六七人立っていた。彼等も同様に、賃銀を貰わずに、追い出されたのであった・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・ ごじゃ/\と書類の積まさった沢山の机を越して、窓際近くで、顎のしゃくれた眼のひッこんだ美しい女の事務員が、タイプライターを打ちながら、時々こっちを見ていた。こういう所にそんな女を見るのが、俺には何んだか不思議な気がした。 持ちもの・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ おげんはがっかりと窓際に腰掛けた。彼女は六十の歳になって浮浪を始めたような自己の姿を胸に描かずにはいられなかった。しかし自分の長い結婚生活が結局女の破産に終ったとは考えたくなかった。小山から縁談があって嫁いで来た若い娘の日から、すくな・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
出典:青空文庫