・・・その別に取立てて云うほどの何があるでも無い眼を見て、初めて夫がホントに帰って来たような気がし、そしてまた自分がこの人の家内であり、半身であると無意識的に感じると同時に、吾が身が夫の身のまわりに附いてまわって夫を扱い、衣類を着換えさせてやった・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・――赤ん坊は何にも知らずに、くたびれた手足をバタ/\させながら、あーあ、あーあ、あ、あ……あと声を立てゝいた。「うまい乳を一杯のませて、ウンと丈夫に育てゝくれ!……はゝゝゝゝ、首を切られたんじゃうまい乳も出ないか。」 お君は刑務所か・・・ 小林多喜二 「父帰る」
・・・戯ぶれが、異なものと土地に名を唄われわれより男は年下なれば色にはままになるが冬吉は面白く今夜はわたしが奢りますると銭金を帳面のほかなる隠れ遊び、出が道明ゆえ厭かは知らねど類のないのを着て下されとの心中立てこの冬吉に似た冬吉がよそにも出来まい・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・わたしは古人の隠逸を学ぶでも何でもなく、何とかしてこの暑苦を凌ごうがためのわざくれから、家の前の狭い路地に十四五本ばかりの竹を立て、三間ほどの垣を結んで、そこに朝顔を植えた。というは、隣家にめぐらしてある高いトタン塀から来る反射が、まともに・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・従って今のところ、もし私の知識で人生の理想標榜というようなものを立てよというなら、まずさしあたりこれを持って来る。人生の理想は自愛である、自己の生である。自分の実行的生活を導いて来たものは、事実このほかになかった。無論実行の瞬間はそんなこと・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・七人とも上着の扣鈕をみな掛けて、襟を立てて、両手をずぼんの隠しに入れている。話声もしない。笑声もしない。青い目で空を仰ぐような事もない。鈍い、悲しげな、黒い一団をなして、男等は並木の間を歩いている。一方には音もなくどこか不思議な底の方から出・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・みんなが牙をむき爪を立ててかみ合いかき合いしているので、ウイリイたちはそこをとおることができませんでした。 ウイリイはそれを見て車から百樽の肉を下して投げてやりました。みんなは喜んですぐにけんかをやめてとおしてくれました。 それから・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・声も美しくエス・キリスト、さては天国の歓喜をほめたたえて、重荷に苦しむものや、浮き世のつらさの限りをなめたものは、残らず来いとよび立てました。 おばあさんはそれを聞きましたが、その日はこの世も天国ほどに美しくって、これ以上のものをほしい・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ 焔は暗くなり、それから身悶えするように左右にうごいて、一瞬大きく、あかるくなり、それから、じじと音を立てて、みるみる小さくいじけて行って、消えた。 しらじらと夜が明けていたのである。 部屋は薄明るく、もはや、くらやみではなかっ・・・ 太宰治 「朝」
・・・腹を立てて、色々な物を従卒に打ち附けてこわした。ドリスを棄てようか。それは「絶待」に不可能である。少し用心深く言ったところで、「当分」不可能である。罷職になって、スラヴ領へ行って、厚皮の長靴を穿く。飛んでもない事だ。世界を一周する。知識欲が・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
出典:青空文庫