・・・だから、ともかく貰うことにした、――それをあとでそのお友達が私に冗談紛れに言って下すった。私は恥かしくて、顔の上に火が走り、それがちらちら心を焼いて、己惚れも自信もすっかり跡形もなくなってしまった。すると、そのお友達はお饒舌の上に随分屁理屈・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・偶然とは云え、斯うした物に紛れ当るということは、余程呪われた者の運命に違いないという気が強くされて―― 彼は、子供等が庭へ出て居り、また丁度細君も使いに行ってて留守だったのを幸い、台所へ行って擂木で出来るだけその凹みを直し、妻に見つかっ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・叔母は笑って取り合ってくれません、そのうちに燈火が点く、従兄弟と挾み将棊をやるなどするうちにいつか紛れてしまいましたが、次の日は下男に送られすぐ家に帰りました。 また母と一しょに帰る時など、二人とも出かける時ほどの元気はありませんで、峠・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ その三 色々な考えに小な心を今さら新に紛れさせながら、眼ばかりは見るものの当も無い天をじっと見ていた源三は、ふっと何の禽だか分らない禽の、姿も見えるか見えないか位に高く高く飛んで行くのを見つけて、全くお浪に対ってでは無・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・真実はおもてに現われて、うそや飾りで無いことは、其の止途無い涙に知れ、そして此の紛れ込者を何様して捌こうか、と一生懸命真剣になって、男の顔を伺った。目鼻立のパラリとした人並以上の器量、純粋の心を未だ世に濁されぬ忠義一図の立派な若い女であった・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・声までがあなたやとすこし甘たれたる小春の声と疑われ今は同伴の男をこちらからおいでおいでと新田足利勧請文を向けるほどに二ツ切りの紙三つに折ることもよく合点しやがて本文通りなまじ同伴あるを邪魔と思うころは紛れもない下心、いらざるところへ勇気が出・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ 宿の夜明け方に時鳥を聞いた。紛れもないほととぎすである。郷里高知の大高坂城の空を鳴いて通るあのほととぎすに相違ない。それからまた、やはり夜明けごろに窓外の池の汀で板片を叩くような音がする。間もなく同じ音がずっと遠くから聞こえる。水鶏で・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・そうしてそれが紛れもない私の知っている宇都野さんの顔である。それで私はこの人の歌を読んでいる時には、作者と対き合ってその声を聞いている時と全く同じ心持になる。 影の濃いというのは、ヴァイタリティの強いという事を意味するとすると、宇都野さ・・・ 寺田寅彦 「宇都野さんの歌」
・・・という役目をつとめるのは、紛れもない事実である。たとえばAかBかのほかには何物も有り得ないという仮定のもとに或る人間の問題を取り扱っている際に、ある物質界の現象を学ぶことによって忽然として、他にCの可能性の存在を忘却していたということに気が・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・後で聞けば、硫黄でえぶし立てられた獣物の、恐る恐る穴の口元へ首を出した処をば、清五郎が待構えて一打ちに打下す鳶口、それが紛れ当りに運好くも、狐の眉間へと、ぐっさり突刺って、奴さん、ころりと文句も云わず、悲鳴と共にくたばって仕舞ったとの事。大・・・ 永井荷風 「狐」
出典:青空文庫