・・・自分が悪口を云われる口惜し紛れに他人の悪口を云うように取られては、悪口の功力がないと心得て今日まで謹慎の意を表していた。しかし花袋君の説を拝見してちょっと弁解する必要が生じたついでに、端なく独歩花袋両君の作物に妄評を加えたのは恐縮である。・・・ 夏目漱石 「田山花袋君に答う」
・・・あるものは閑に任せて叮嚀な楷書を用い、あるものは心急ぎてか口惜し紛れかがりがりと壁を掻いて擲り書きに彫りつけてある。またあるものは自家の紋章を刻み込んでその中に古雅な文字をとどめ、あるいは盾の形を描いてその内部に読み難き句を残している。書体・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ 翌日も熱があったがくたびれ紛れに寝てしもうた。 そのまた翌日即ち五月一日には熱が四十度に上った。〔『ホトトギス』第三巻第十号 明治33・7・30〕 正岡子規 「車上の春光」
・・・かつて僕が腹立紛れに乱暴な字を書いたところが、或人が竜飛鰐立と讃めてくれた事がある。今日のも釘立ち蚯蚓飛ぶ位の勢は慥かにあるヨ。これで、書初めもすんで、サア廻礼だ。」「おい杖を持て来い。」「どの杖をナ。」「どの杖ててまさかもう撞木杖なん・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・からだの痛みが激しくて少しも止まらぬような時はとにかくその苦しみに紛れて日がたって行くけれど、病に少しでも閑があるという事になるとその時間のつぶしように困ってしまう。ただ静にして居ったばかりでは単に無聊に苦しむというよりも、むしろ厭やな事な・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・寒い土地の初夏という紛れない感じで感歎した。 青島は、なかなか有名だ。大抵の人が知っていた、是非行って見ろと云う。去年両親が旅行した時もわざわざ宮崎へ泊って見物した由、帰っての話題に相当大きい役割を持っていた。 私共はそもそも初めの・・・ 宮本百合子 「九州の東海岸」
・・・と捨科白した記事がのった、一部の不幸な嘗ての兵士は、遠くない過去において、紛れもなく義理も人情もない扱いをうけて来た自覚をもっていることを意味する。その声は、不幸を一層不幸にする社会性の乏しい憤りにまかせて、同じ苦にある人民仲間に向けられた・・・ 宮本百合子 「逆立ちの公・私」
・・・とは、紛れもない時代の双児であった。この作家と評論家とは手をとり合って、自意識の摸索を続けた結果、遂に横光利一の純粋小説論に辿りついた。 文学に於ける自我の探究が自我を自己目的とした時、現実関係の中に生きている人間像は作家の内的世界から・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・これを持ち伝えておるからは、お前の家柄に紛れはない。仙洞がまだ御位におらせられた永保の初めに、国守の違格に連座して、筑紫へ左遷せられた平正氏が嫡子に相違あるまい。もし還俗の望みがあるなら、追っては受領の御沙汰もあろう。まず当分はおれの家の客・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・ただし物語に紛れて遅れては面目なかろう。翌日ごろはいずれも決めて鎌倉へいでましなさろうに……後れては……」「それもそうじゃ,そうでおじゃる。さらば物語は後になされよ。とにかくこの敗軍の体を見ればいとど心も引き立つわ」「引き立つわ、引・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫