・・・は素直ではないが素朴である。フランスのように人間の可能性を描く近代小説が爛熟期に達している国で、サルトルが極度に追究された人間の可能性を、一度原始状態にひき戻して、精神や観念のヴェールをかぶらぬ肉体を肉体として描くことを、人間の可能性を追究・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・そして最も素朴な真実な芸術を作ろう……」などと、それからそれと楽しい空想に追われて、数日来の激しい疲労にもかかわらず、彼は睡むることができなかった。二 翌朝彼は本線から私線の軽便鉄道に乗替えて、秋田のある鉱山町で商売をしてい・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・百姓のずるさも持って居る。百姓の素朴さも持って居る。百姓らしくまぬけでもある。そのくせ、ぬけめがないところもあるんだ。このせち辛い世の中に、まるで、自給自足時代の百姓のように、のんきらしく、──何を食って居るのかしらんがともかく暮して居る。・・・ 黒島伝治 「自画像」
・・・が、上れとも云わなければ茶一つ出そうともしない代り、自分も付合って家へ上りもしないでいるのは、一つはお浪の心安立からでもあろうが、やはりまだ大人びぬ田舎娘の素樸なところからであろう。 源三の方は道を歩いて来たためにちと脚が草臥ているから・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・俺は運動に出ると、何時でも、その速力の出し工合と、身体の疲労の仕方によって、自分の健康に見当をつける素朴な方法を注意深く実行している。 走りながら、こっちでワザと大きな声をあげると、隣りを走っている同志も大きな声を出した。エヘンとせき払・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・なんとなく次郎の求めているような素朴さは、私自身の求めているものでもある。最後からでも歩いて行こうとしているような、ゆっくりとおそい次郎の歩みは、私自身の踏もうとしている道でもある。三郎はまた三郎で、画面の上に物の奥行きなぞを無視し、明快に・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・彼はしばらくこの地方に足を留め、心易い先生方の中で働いて、もっともっと素朴な百姓の生活をよく知りたいと言った。谷の向うの谷、山の向うの山に彼の心は馳せた。 それから二年ばかりの月日が過ぎた。約束の任期が満ちても高瀬は暇を貰って帰ろう・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・これとても、ゲエテの素朴な詩精神に敬服しているのではなく、ゲエテの高位高官に傾倒しているらしい、ふしが、無いでもない。あやしいものである。けれども、兄妹みんなで、即興の詩など、競作する場合には、いつでも一ばんである。できている。俗物だけに、・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・人間は、素朴に生きるより、他に、生きかたがないものだ。 かたわらに寝ているかず枝の髪の、杉の朽葉を、一つ一つたんねんに取ってやりながら、 おれは、この女を愛している。どうしていいか、わからないほど愛している。そいつが、おれの苦悩のは・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・たいへん素朴な疑念であった。求めて職が得られないならば、そのときには、純粋に無報酬の行為でもよい。拙なくても、努力するのが、正しいのではないのか。世の中は、それをしなければ、とても生きて居れないほどきびしいところではないのか。生活の基本には・・・ 太宰治 「花燭」
出典:青空文庫