ある晩春の午後、私は村の街道に沿った土堤の上で日を浴びていた。空にはながらく動かないでいる巨きな雲があった。その雲はその地球に面した側に藤紫色をした陰翳を持っていた。そしてその尨大な容積やその藤紫色をした陰翳はなにかしら茫・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
一 私は村の街道を若い母と歩いていた。この弟達の母は紫色の衣服を着ているので私には種々のちがった女性に見えるのだった。第一に彼女は私の娘であるような気を起こさせた。それは昔彼女の父が不幸のなかでどんなに酷く・・・ 梶井基次郎 「闇の書」
・・・山の上に山が重なり、秋の日の水のごとく澄んだ空気に映じて紫色に染まり、その天末に糸を引くがごとき連峰の夢よりも淡きを見て自分は一種の哀情を催し、これら相重なる山々の谷間に住む生民を懐わざるを得なかった。 自分は小山にこの際の自分の感情を・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・白い粘土で塗りかためられた煙突からは、紫色の煙が薄く、かすかに立のぼりはじめたばかりだ。 ウォルコフは、手綱をはなし、やわい板の階段を登って、扉を叩いた。 寝室の窓から、彼が来たことを見ていた三十すぎのユーブカをつけた女は戸口へ廻っ・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・雪に包まれた江の向うの林に薄い紫色の煙が上りだした。「誰れやこしだったんだ?」 腰に弾丸がはまっている初田がきいた。「六人じゃというこっちゃ。」「六人?」 六人の兵士は、みな名前を知っていた。顔を知っていた。一緒に、あの・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・えわかず、天地一つに昏くなりて、ただ狂わしき雷、荒ぶる雨、怒れる風の声々の乱れては合い、合いてはまた乱れて、いずれがいずれともなく、ごうごうとして人の耳を驚かし魂をおびやかすが中に、折々雲裂け天破れて紫色の光まばゆく輝きわたる電魂の虚空に跳・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・身体中いたる所に紫色のキズがついている。「あゝ、これ?」娘は何んでもないことのように、「警察でやられたのよ」といった。 それから笑いながら、「こんな非道い目に会うということが分ったら、お母さんはあいつらにお茶一杯のませてやるなんて間・・・ 小林多喜二 「疵」
・・・おせんがこの部屋で菫の刺繍なぞを造ろうとしては、花の型のある紙を切地に宛行ったり、その上から白粉を塗ったりして置いて、それに添うて薄紫色のすが糸を運んでいた光景が、唯涙脆かったような人だけに、余計可哀そうに思われて来た。大塚さんは、安楽椅子・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・熱がなかなかさがらなくて、そのうちに全身が紫色に腫れて来て、これもあなたのようないいお方を粗末にした罰で、当然の報いだとあきらめて、もう死ぬのを静かに待っていたら、腫れた皮膚が破れて青い水がどっさり出て、すっとからだが軽くなり、けさ鏡を覗い・・・ 太宰治 「竹青」
・・・鼻孔からは、鼻血がどくどく流れ出し、両の眼縁がみるみる紫色に腫れあがる。 はるか遠く、楢の幹の陰に身をかくし、真赤な、ひきずるように長いコオトを着て、蛇の目傘を一本胸にしっかり抱きしめながら、この光景をこわごわ見ている女は、さちよである・・・ 太宰治 「火の鳥」
出典:青空文庫