・・・市街を離れた川沿いの一つ家はけし飛ぶ程揺れ動いて、窓硝子に吹きつけられた粉雪は、さらぬだに綿雲に閉じられた陽の光を二重に遮って、夜の暗さがいつまでも部屋から退かなかった。電燈の消えた薄暗い中で、白いものに包まれたお前たちの母上は、夢心地に呻・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・夕映えの色も常に異なった暗黄色を帯びて物凄いと思う間に、それも消えて、暮れかかる濃鼠の空を、ちぎれちぎれの綿雲は悪夢のように果てもなく沖から襲うて来る。沖の奥は真暗で、漁火一つ見えぬ。湿りを帯びた大きな星が、見え隠れ雲の隙を瞬く。いつもなら・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・風にゆれる野の草がさながら炎のように揺れて前方の小高い丘の丸山のほうへなびいて行く、その行く手の空には一団の綿雲が隆々と勢いよく盛り上がっている。あたかも沸き上がり燃え上がる大地の精気が空へ空へと集注して天上ワルハラの殿堂に流れ込んでいるよ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・低い綿雲が垂れ下がって乙供からは小雨が淋しくふり出した。野辺地の浜に近い灌木の茂った斜面の上空に鳶が群れ飛んでいた。近年東京ではさっぱり鳶というものを見たことがなかったので異常に珍しくなつかしくも思われた。のみならず鳶のこのように群れている・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・空はもう半ば晴れていたが千切れ千切れの綿雲が嵐の時のように飛んでいた。そのうちにボーイの一人が帰って来たので勘定をすませた。ボーイがひどく丁寧に礼を云ったように記憶する。出口へ出るとそこでは下足番の婆さんがただ一人落ち散らばった履物の整理を・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・空に切れ切れな綿雲の影が扇のように遠く広がったすそ野に青い影を動かしていた。過去のいろいろの年代にあふれ出した熔岩の流れの跡がそれぞれ違った色彩によって見分ける事ができるのであった。しかし火山は昔の大虐殺などは夢にも知らないような平和な姿を・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・湖上の景色見飽かざる間に彦根城いつしか後になり、胆吹山に綿雲這いて美濃路に入れば空は雨模様となる。大垣の商人らしき五十ばかりの男頻りに大垣の近況を語り関が原の戦を説く。あたりようやく薄暗く工夫体の男甲走りたる声張り上げて歌い出せば商人の娘堪・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・コバルトの空には玉子色の綿雲が流れて、遠景の広野の果の丘陵に紫の影を落す。森のはずれから近景へかけて石ころの多い小径がうねって出る処を橙色の服を着た豆大の人が長い棒を杖にし、前に五、六頭の牛羊を追うてトボトボ出て来る。近景には低い灌木がとこ・・・ 寺田寅彦 「森の絵」
・・・ 楽隊はときどき気まぐれなラッパをブーッブーッと吹きならすと、白い綿雲の静かにただよって居る空の奥の方で、同じ調子のかすかな音が反響する。 ◎岡村翁は、父親の年も一緒に数えて、百十八歳なのだと云って居るものがあるそうである。四十・・・ 宮本百合子 「「禰宜様宮田」創作メモ」
出典:青空文庫