・・・ いと恐しき声にもおじず、お貞は一膝乗出して、看病疲れに繕わざる、乱れし衣紋を繕いながら、胸を張りて、面を差向け、「旦那、どうして返すんです。」「離縁しよう。いまここで、この場から離縁しよう。死にかかっている吾を見棄てて、芳之助・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ 婦人はあわただしく蹶ね起きて、急に居住まいを繕いながら、「はい」と答うる歯の音も合わず、そのまま土に頭を埋めぬ。 巡査は重々しき語気をもて、「はいではない、こんな処に寝ていちゃあいかん、疾く行け、なんという醜態だ」 と・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・満蔵は米搗き、兄は俵あみ、省作とおはまは繩ない、姉は母を相手にぼろ繕いらしい。稲刈りから見れば休んでるようなものだ。向こうの政公も藁をかついでやって来た。「どうか一人仲間入りさしてください。おや、おはまさんも繩ない……こりゃありがたい。・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・もう繕いようもどうしようも無い、全く出来損じになる。材料も吟味し、木理も考え、小刀も利味を善くし、力加減も気をつけ、何から何まで十二分に注意し、そして技の限りを尽して作をしても、木の理というものは一々に異う、どんなところで思いのほかにホロリ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・せめて私は毎日ながめ暮らす身のまわりだけでも繕いたいと思って、障子の切り張りなどをしていると、そこへ次郎が来て立った。「とうさん、障子なんか張るのかい。」 次郎はしばらくそこに立って、私のすることを見ていた。「引っ越して行く家の・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ つまらない繕いものは年上の女の子が当番でやる。私たちが裁縫室へ入った時は、五六人の女の子が、シャツのボタンをしらべ、落ちたのをつけていました。 さあ、また、玄関わきの客間へ戻って来た。ここには、壁新聞やピアノや、この前ハンガリーの・・・ 宮本百合子 「従妹への手紙」
・・・ 良心の疚しさを、種々な自他の慣習的弁護で云い繕いながら、粗野な言葉を許されれば、幾十人の女がしたように、糧食と交換に「女性」を提供する、「気」にならずにはすむ訳です。 口実を許す「実際的必要」がなくなれば、口実によって人格を無視す・・・ 宮本百合子 「ひしがれた女性と語る」
・・・ 爽やかな秋風の並木道のベンチに女がゆっくり腰かけて、繕いものをしながら乳母車にのせた赤坊を日向ぼっこさせてる。乾いた葉っぱの匂い、微かな草の匂い。自動車やトラックは並木道のあっちを通るから、小深い樹の下は静かで柔かい日光がさしとおして・・・ 宮本百合子 「モスクワ日記から」
・・・酒色に酖ると見えしも、木村氏の前をかく繕いしのみにて、夜な夜な撃剣のわざを鍛いぬ。任所にては一瀬を打つべき隙なかりしかば、随いて東京に出で、さて望を遂げぬ。その折の事は世のよく知る所なれば、ここにはいわず。臼井六郎も今は獄を出でたり。獄中に・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫