・・・……庭に柿の老樹が一株。遣放しに手入れをしないから、根まわり雑草の生えた飛石の上を、ちょこちょことよりは、ふよふよと雀が一羽、羽を拡げながら歩行いていた。家内がつかつかと跣足で下りた。いけずな女で、確に小雀を認めたらしい。チチチチ、チュ、チ・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・鳴鏑雲を穿つて咆虎斃る 快刀浪を截つて毒竜降る 出山赤手強敵を擒にし 擁節の青年大邦に使ひす 八顆の明珠皆楚宝 就中一顆最も無双 妙椿八百尼公技絶倫 風を呼び雨を喚ぶ幻神の如し 祠辺の老樹精萃を蔵す 帳裡の名香美人を現ず 古・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・その展望のなかには旧徳川邸の椎の老樹があります。その何年を経たとも知れない樹は見わたしたところ一番大きな見事なながめです。一体椎という樹は梅雨期に葉が赤くなるものなのでしょうか。最初はなにか夕焼の反射をでも受けているのじゃないかなど疑いまし・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・ ようやくにして渡り終れば大華表ありて、華表のあなたは幾百年も経たりとおぼゆる老樹の杉の、幾本となく蔭暗きまで茂り合いたり。これより神の御山なりと思う心に、日の光だに漏らぬ樹蔭の涼しささえ打添わりて、おのずから身も引きしまるようにおぼゆ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・途中で絶壁の老樹の枝にひっかかった。枝が折れた。すさまじい音をたてて淵へたたきこまれた。 滝の附近に居合せた四五人がそれを目撃した。しかし、淵のそばの茶店にいる十五になる女の子が一番はっきりとそれを見た。 いちど、滝壺ふかく沈められ・・・ 太宰治 「魚服記」
・・・焔はなくて、湿った白い烟ばかりが、何とも云えぬ悪臭を放ちながら、高い老樹の梢の間に立昇る。老樹の梢には物すごく鳴る木枯が、驚くばかり早く、庭一帯に暗い夜を吹下した。見えない屋敷の方で、遠く消魂しく私を呼ぶ乳母の声。私は急に泣出し、安に手を引・・・ 永井荷風 「狐」
・・・往来の右側、いつでも夏らしく繁った老樹の下に、三、四台の荷車が休んでいる。二頭立の箱馬車が電車を追抜けて行った。左側は車の窓から濠の景色が絵のように見える。石垣と松の繁りを頂いた高い土手が、出たり這入ったりして、その傾斜のやがて静かに水に接・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・小笹に蔽われた道端に、幹の裂けた桜の老樹が二、三株ずつ離れ離れに立っている。わたくしが或日偶然六阿弥陀詣の旧道の一部に行当って、たしかにそれと心付いたのは、この枯れかかった桜の樹齢を考えた後、静に曾遊の記憶を呼返した故であった。 江北橋・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・しかしこの堂宇は改築されて今では風致に乏しいものとなり、崖の周囲に茂っていた老樹もなくなり、岡の上に立っていた戸田茂睡の古碑も震災に砕かれたまま取除けられてしまったので、今日では今戸橋からこの岡を仰いで、「切凧の夕越え行くや待乳山」の句を思・・・ 永井荷風 「水のながれ」
・・・ 底光りのする空を縫った老樹の梢には折々梟が啼いている。月の光は幾重にも重った霊廟の屋根を銀盤のように、その軒裏の彩色を不知火のように輝していた。屋根を越しては、廟の前なる平地が湖水の面のように何ともいえぬほど平かに静に見えた。二重にも・・・ 永井荷風 「霊廟」
出典:青空文庫