・・・紅い唇はこっちの肉感を刺戟した。ロシアの娘にはメリケン兵の不正が理解せられないところだった。「これが偽札なら、あんた方がこしらえたんでしょう。そうにきまってる! どうしてアメリカ人に日本の偽札が拵えられるの?」「馬鹿云え、俺等が俺等の偽・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・けれども王子の、無邪気な懸命の祈りは、神のあわれみ給うところとなり、ラプンツェルは、肉感を洗い去った気高い精神の女性として蘇生した。王子は、それに対して、思わずお辞儀をしたくらいである。ここだ。ここに、新しい第二の結婚生活がはじまる。曰く、・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・この人にとっては自分の触覚と肉感があらゆる実在で、自分の存在に無関係な外界の実在を仮定する事はわれわれほど容易でないかもしれない。象と盲者のたとえ話は実によくこの点に触れている。 これはただ極端な一例をあげたに過ぎないが、この仮想的の人・・・ 寺田寅彦 「物理学と感覚」
・・・ その頃いわれていたように、男と話すときの一種漠然としていながら肉感のともなった嬌態の一つとしてそんな風にしゃべった女性もあったにちがいない。 けれども、それが全部ではなかったろう。日本の若い女性が、結婚してもつべき家庭生活の中で女・・・ 宮本百合子 「結婚論の性格」
・・・の舞台に漂ったメイエルホリドの、底なしのデカダンスの肉感と、オストロフスキーの「森」の舞台の牧歌的朗らかな恋愛表現、哄笑的ナンセンスとの対照。又「D《デー》・E《エー》」の黒漆でぬたくったような暗い激しい圧力と「吼えろ! 支那」の切り石のよ・・・ 宮本百合子 「ソヴェトの芝居」
・・・○ひとが居た方がよい心持○友達のこと、○教授のこと。○肉感のことも。 考え余りAと別々に暮すことをもち出す。A、田舎に引こんで 何も彼もすててしまうと云う。人を教えるものが妻と別れて平気で顔向けが出来るかという・・・ 宮本百合子 「「伸子」創作メモ(二)」
・・・心の濃淡を感覚の上に移し、情の深さを味わいのこまやかさで量り、生の豊麗を肉感の豊麗に求めた。そうしてすべてを変化のゆえに、新味のゆえに尚んだ。こうして私は生の深秘をつかむと信じながら、常に核実を遠のいていたのであった。それゆえに私は真の勇気・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫