・・・それで写実的な感じはするかもしれないが、線の交響楽として見た時に、肝心の第一ヴァイオリンがギーギーきしっているような感じしか与えない。これに反して、同じ北斎が自分の得意の領分へはいると同じぎざぎざした線がそこではおのずからな諧調を奏してトレ・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
・・・これも肝心な所が省略されているそうであるが、それでもおもしろくなくはない。牛乳びんがいっせいに充填されて行くところだとか、耕作機械の大分列式だとか、これらは子供にもおとなにも、赤にも白にも、無条件におもしろい何物かをもっている。映画のそもそ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・合奏より夢の続きが肝心じゃ。――画から抜けだした女の顔は……」とばかりで口ごもる。「描けども成らず、描けども成らず」と丸き男は調子をとりて軽く銀椀を叩く。葛餅を獲たる蟻はこの響きに度を失して菓子椀の中を右左りへ馳け廻る。「蟻の夢が醒・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・何しろこんな時は気を落ちつけて寝るのが肝心だと堅く眼を閉じて見る。すると虹霓を粉にして振り蒔くように、眼の前が五色の斑点でちらちらする。これは駄目だと眼を開くとまたランプの影が気になる。仕方がないからまた横向になって大病人のごとく、じっとし・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・娘を人の家に嫁せしめて舅姑の機嫌に心配あり、兄公女公親類の附合も面倒なり、幸に是等は円く治まるとしても、肝心の夫こそ掛念至極の相手なれ。其性行正しく妻に接して優しければ高運なれども、或は然らず世間に珍らしからぬ獣行男子にして、内君を無視し遊・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・ これまでの私たち日本人は、大事なことはみんな役所まかせで、肝腎の命さえ、自分の勝手にはなりませんでした。役所は、小さな区役所から内閣まで、一度で用のすまないのが普通です。云ってみれば、これまでの私たちには、自分で自分がままならず、・・・ 宮本百合子 「新しい躾」
・・・などは、早苗姫が自殺してからの信玄の心理的経路が鮮明に描かれていなかったらしい為に、肝心の幕切れで、信玄と云う人格、早苗姫の死が、一向栄えないものになったように見える。 作者は、所々で、信玄を、英雄的概念から脱した人間らしい一性格として・・・ 宮本百合子 「印象」
・・・旅順は落ちると云う時期に、身上の有るだけを酒にして、漁師仲間を大連へ送る舟の底積にして乗り出すと云うのは、着眼が好かったよ。肝心の漁師の宰領は、為事は当ったが、金は大して儲けなかったのに、内では酒なら幾らでも売れると云う所へ持ち込んだのだか・・・ 森鴎外 「鼠坂」
・・・そこが肝心なのでございますわ。二頭曳でなくって、一頭曳だったのが。男。でも一頭曳しか無かったのです。貴夫人。いいえ。あんな時はどうしても二頭曳のを見附けていらっしゃらなくてはならないのです。あなたそれからどうなすったか覚えていらっし・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
・・・僕は零が肝心だと思うんだが、どうですか。」「そこですよ。」栖方はひどく乗り出す風に早口になって笑った。「おれのは、みんなそこからです。誰一人分ってくれない。この間も、それで喧嘩をしたのですが、日本の軍艦も船も、みな間違っているのです。船・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫