・・・と引かれて、カチカチと、何か、歯をくいしめて堪えたが、突込む筆の朱が刎ねて、勢で、ぱっと胸毛に懸ると、火を曳くように毛が動いた。「あ熱々!」 と唐突に躍り上って、とんと尻餅を支くと、血声を絞って、「火事だ! 同役、三右衛門、火事・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・あの声がキイと聞えるばかり鳴き縋って、引切れそうに胸毛を震わす。利かぬ羽を渦にして抱きつこうとするのは、おっかさんが、嘴を笊の目に、その……ツツと入れては、ツイと引く時である。 見ると、小さな餌を、虫らしい餌を、親は嘴に銜えているのであ・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ 親分の胸がハダけて、胸毛がでた。それから棒頭に「やるんだぜ!」と合図をした。 一人が逃亡者のロープを解いてやった。すると棒頭がその大人の背ほどもある土佐犬を源吉の方へむけた。犬はグウグウと腹の方でうなっていたが、四肢が見ている・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・手ぬぐい地の肌着から黒い胸毛を現わしてたくましい腕に木槌をふるうている。槌の音が向こうの丘に反響して静かな村里に響き渡る。稲田には強烈な日光がまぶしいようにさして、田んぼは暑さに眠っているように見える。そこへ羅宇屋が一人来て・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・文鳥は軽い足を水入の真中に胸毛まで浸して、時々は白い翼を左右にひろげながら、心持水入の中にしゃがむように腹を圧しつけつつ、総身の毛を一度に振っている。そうして水入の縁にひょいと飛び上る。しばらくしてまた飛び込む。水入の直径は一寸五分ぐらいに・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・そこでいつものように、フッフッと息をかけて、紅雀の胸毛で上を軽くこすりました。 けれども、どうもそれがとれないのです。その時、お父さんが帰って来ました。そしてホモイの顔色が変わっているのを見て言いました。 「ホモイ。貝の火が曇ったの・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・止り木から止り木へ、ひょいひょい身軽に移る度毎に、細く削った竹籠のすきから、巻いた柔かそうな胸毛の洩れる姿が、何ともいえず美くしかった。「いいわね」と私が云う。「僕等も何か飼ってみようか」 良人が云う。帰京すると、彼はいつの・・・ 宮本百合子 「小鳥」
・・・ ある所にその名はわからなんだがうす赤い胸毛とみどりの翼と紫の様なまなこを持った小鳥が居ったと申す事じゃ。 なりは鳥共の中でいっち小そうてはあったが色と声の美くしさはお造りなされた神さえ御驚きなされたと申すほどでの、神からも人間から・・・ 宮本百合子 「胚胎(二幕四場)」
・・・ サラサラした水は快く彼等の軟い胸毛を濡して、鯱鉾立ちをする様にして、川床の塵の間を漁る背中にたまった水玉が、キラキラと月の光りを照り返した。 バシャバシャと云う水のとばしる音、濡れそぼけて益々重くなった羽ばたきの音、彼等の口から思・・・ 宮本百合子 「一条の繩」
・・・たれる様にからまる感じ、なりふりにあんまりかまわない私でさえこれは世の中の皆の男の人に一度はさせてあげたいと思うほどですもの――自分の心の輝きをそっくり色と模様に出した着物を着られますもの、その下には胸毛なんかの一寸もない胸としまったうでと・・・ 宮本百合子 「芽生」
出典:青空文庫