・・・小さな汚い乗合のモーター船に乗って、浦安の海村に遊んだことがある。小舷を打つ水の音が俄に耳立ち、船もまた動揺し出したので、船窓から外を見たが、窓際の席には人がいるのみならず、その硝子板は汚れきって磨硝子のように曇っている。わたくしは立って出・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・隅田の水はまだ濁らず悪臭も放たず清く澄んでいたので渡船で河を越す人の中には、舷から河水で手を洗うものさえあった。 曳舟まで出て見ると、場末の町つづきになって百花園も遠くはない。百花園から堀切の菖蒲園も近くなって来る。堀切のあたりは放水路・・・ 永井荷風 「向島」
・・・これは会釈もなく舷から飛び上る。はなやかな鳥の毛を帽に挿して黄金作りの太刀の柄に左の手を懸け、銀の留め金にて飾れる靴の爪先を、軽げに石段の上に移すのはローリーか。余は暗きアーチの下を覗いて、向う側には石段を洗う波の光の見えはせぬかと首を延ば・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・甲板に上り著くと同時に痰が出たから船端の水の流れて居る処へ何心なく吐くと痰ではなかった、血であった。それに驚いて、鱶を一目見るや否や梯子を下りて来て、自分の行李から用意の薬を取り出し、それを袋のままで着て居る外套のカクシへ押し込んで、そうし・・・ 正岡子規 「病」
・・・日さんさえ出たらきっともう僕たちは陸の方へ行かなけぁならないようになるんだ、僕はだんだん岸へよって鴎が白い蓮華の花のように波に浮んでいるのも見たし、また沢山のジャンクの黄いろの帆や白く塗られた蒸気船の舷を通ったりなんかして昨日の気象台に通り・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・船が難破しかかったとき、最後にその船を転覆させて自分たちの命もすてさせてしまうのは、舷の傾いた方へ我を失って塊りすがりつく未訓練な乗客の重量である。その通りのことが生じて来る。批判は発展的にされず、対比的にされる。ああではない、だからこう、・・・ 宮本百合子 「全体主義への吟味」
・・・――舷に手をかけ、救けを求める奴なぞは叩き沈めろ! 孕み女が転んだとて、容赦なんぞはいるもんか。ヴィンダー ――ところで、妙な軍装の奴が現れたぞ。今のところでは俺の味方に廻って、壊しやの手先になって呉れる奴か、或は又逆に鉾を向けて、所謂・・・ 宮本百合子 「対話」
・・・桶や袋や箱を重く積込んだ渡船は帆をかけ、舵手席に、平静で、冷やかな眼をしたパンコフが坐り、舷には灰色の脆い早春の氷塊が濁った水に漂いながらぶつかる。北風が岸に波によせて戯れ、太陽が氷塊の青く硝子のような脇腹に当って明るく白い束のように反射し・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・二艘の舟がかしいで、舷が水を笞った。 大夫は二人の船頭の顔を冷ややかに見較べた。「あわてるな。どっちも空手では還さぬ。お客さまがご窮屈でないように、お二人ずつ分けて進ぜる。賃銭はあとでつけた値段の割じゃ」こう言っておいて、大夫は客を顧み・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・思いを殺し、腰蓑の鋭さに水滴を弾いて、夢、まぼろしのごとく闇から来り、闇に没してゆく鵜飼の灯の燃え流れる瞬間の美しさ、儚なさの通過する舞台で、私らの舟も舷舷相摩すきしみを立て、競り合い揺れ合い鵜飼の後を追う。目的を問う愚もなさず、過去を眺め・・・ 横光利一 「鵜飼」
出典:青空文庫