・・・新しい、これまで知らなかった苦悩のために、全身が引き裂かれるようである。 どうも何物をか忘れたような心持がする。一番重大な事、一番恐ろしかった事を忘れたのを、思い出さなくてはならないような心持がする。 どうも自分はある物を遺却してい・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・と更に拝んで、「手足に五寸釘を打たりょうとても、かくまでの苦悩はございますまいぞ、お情じゃ、禁厭うて遣わされ。」で、禁厭とは別儀でない。――その紫玉が手にした白金の釵を、歯のうろへ挿入て欲しいのだと言う。「太夫様お手ずから。……竜と蛞蝓・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・が無く、夜も安くは眠られないが、いよいよ捕えられて獄中の人となってしまえば、気も安く心も暢びて、愉快に熟睡されると聞くが、自分の今夜の状態はそれに等しいのであるが、将来の事はまだ考える余裕も無い、煩悶苦悩決せんとして決し得なかった問題が解決・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
人間の幸不幸、それは一様ではない。十人が十人、皆それ/″\の悩みと楽しみとがある。併し恐らく一生を通じて苦悩のない者はなく、歓喜のないものも又ないだろう。そしてそれらは、波の寄せては返すように、循環しているものであろう。誰でもが自分の・・・ 小川未明 「波の如く去来す」
・・・そんな見出しの新聞記事を想像するに及んで、苦悩は極まった。 いろいろ思い案じたあげく、今のうちにお君と結婚すれば、たとえ姙娠しているにしてもかまわないわけだと、気がつき、ほっとした。なぜこのことにもっと早く気がつかなかったか、間抜けめと・・・ 織田作之助 「雨」
・・・僕は母に交って此方に来て、母は今、横浜の宅に居ますが、里子は両方を交る/″\介抱して、二人の不幸をば一人で正直に解釈し、たゞ/\怨霊の業とのみ信じて、二人の胸の中の真の苦悩を全然知らないのです。 僕は酒を飲むことを里子からも医師からも禁・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・ げに横浜までの五十分は貴嬢がためにも二郎がためにもこの上なき苦悩なりき、二郎には旧歓の哀しみ、貴嬢には現場の苦しみ、しかして二人等しく限りなきの恥に打たれたり。ただ貴嬢の恥は二郎に対する恥、二郎の恥は自己に対する恥、これぞ男と女の相違・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・「然かし能くしたもので、その翌日少女の顔を見ると平常に変っていない、そしてそのうっとりした眼に笑を含んで迎えられると、前夜からの心の苦悩は霧のように消えて了いました。それから又一月ばかりは何のこともなく、ただうれしい楽しいことばかりで…・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・もしそれこれを憶うていよいよ感じ、瞑想静思の極にいたればわれ実に一呼吸の機微に万有の生命と触着するを感じたりき もしこの事、単にわが空漠たる信念なりとするも、わが心この世の苦悩にもがき暗憺たる日夜を送る時に当たりて、われいかにしばしば汝・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・ しかしそれはわれわれが行為決定の際の倫理的懐疑――それは頭のしんの割れるような、そのためにクロポトキンの兄が自殺したほどの名状すべからざる苦悩であるが――から倫理学によって救済されんことを求めるからであって、そのほかの観点からすれば、・・・ 倉田百三 「学生と教養」
出典:青空文庫