・・・それからその机の側にある、とうにニスの剥げた茶箪笥の上には、頸の細い硝子の花立てがあって、花びらの一つとれた造花の百合が、手際よくその中にさしてある。察する所この百合は、花びらさえまだ無事でいたら、今でもあのカッフェの卓子に飾られていたのに・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・と宣告されたほどに破損して、この二、三年間ただ茶箪笥の上の飾り物になっていて、老母も妻も、この廃物に対して時折、愚痴を言っていたのを思い出し、銀行から出たすぐその足でラジオ屋に行き、躊躇するところなく気軽に受信機の新品を買い求め、わが家のと・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・まだ新しい桑の長火鉢と、それと揃いらしい桑の小綺麗な茶箪笥とが壁際にならべて置かれていた。長火鉢には鉄瓶がかけられ、火がおこっていた。僕は、まずその長火鉢の傍に腰をおちつけて、煙草を吸ったのである。引越したばかりの新居は、ひとを感傷的にする・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・そうして婆に言いつけて、私の連れの職工とその相手のおいらんをも私たちの部屋へ呼んで来させ、落ちついてお茶をいれ、また部屋の隅の茶箪笥から、お皿に一ぱい盛った精進揚げを取り出し私たちにすすめました。連れの職工は、おい旦那、と私を呼び、奥さんの・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・台所で陶器のふれ合う音がすると思って行って見ると戸を締め忘れた茶箪笥の上と下の棚から二匹がとぼけた顔を出してのぞいていたりした。 ねずみはまだついぞ捕ったのを見た事がないが、もうねずみのいたずらはやんでしまって、天井は全く静かになった。・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
宅のラジオ受信機は去年の七月からかれこれ半年ほどの間絶対沈黙の状態に陥ったままで、茶の間の茶箪笥の上に乗っかったきりになっていた。夕飯時に近所の家から「子供の時間」の唱歌などが聞こえて来ても、宅の機械は固く沈黙を守って冷や・・・ 寺田寅彦 「ラジオ雑感」
・・・南向の硝子窓に向って机、椅子、右手の襖際に木箱を横にした上へ布をかけこれは茶箪笥の役に立てる。電燈に使い馴れた覆いをかけると、狭い室内は他人の家の一部と思えないような落付きをもった。陽子は、新らしい机の前にかけて見た。正面に夜の硝子窓があっ・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・と笑い乍ら、茶箪笥の横にあった筈の自分の銀貨入れをみつけた。覚え違いと見え、二三枚畳んで置いてあった新聞の間にも見当らない。下駄を穿き、「まだかい」とせき立てる。愛は戸棚の、小さい箱根細工の箱から、銀貨、白銅とりまぜて良人の拡げ・・・ 宮本百合子 「斯ういう気持」
・・・ そこへ私は茶箪笥をおき、長火鉢をおき、長火鉢と直角にチャブ台をひかえて、上で仕事しないときは、そこに構えているわけです。八畳からすぐ台所だというのが私どもの暮しかたには大変いい工合なのですが、生憎井戸でね。朝まだ眠いのに家でガッチャンガッ・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・箪笥の中から茶箪笥の中まで異常な注意深さで管理した。台所まで口を出すので、石川は或るとき、「台所のことは女の領分ですから、婆やにお委せなさいまし」と云い含めた。「あなたは旦那様ですから、ちゃんと奥にいらして、食べたいものをお云い・・・ 宮本百合子 「牡丹」
出典:青空文庫