・・・ 主人は大胡座で、落着澄まし、「吝なことをお言いなさんな、お民さん、阿母は行火だというのに、押入には葛籠へ入って、まだ蚊帳があるという騒ぎだ。」「何のそれが騒ぎなことがあるもんですか。またいつかのように、夏中蚊帳が無くっては、そ・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ 実際お縫は葛籠の中を探して驚いたのもこれ、眉を顰めたのもこれがためであった。斧と琴と菊模様の浴衣こそ菊枝をして身を殺さしめた怪しの衣、女が歌舞伎の舞台でしばしば姿を見て寐覚にも俤の忘られぬ、あこがるるばかり贔屓の俳優、尾上橘之助が、白・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・いくら雪国でも、貴下様、もうこれ布子から単衣と飛びまする処を、今日あたりはどういたして、また襯衣に股引などを貴下様、下女の宿下り見まするように、古葛籠を引覆しますような事でござりまして、ちょっと戸外へ出て御覧じませ。鼻も耳も吹切られそうで、・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・雨戸の中は、相州西鎌倉乱橋の妙長寺という、法華宗の寺の、本堂に隣った八畳の、横に長い置床の附いた座敷で、向って左手に、葛籠、革鞄などを置いた際に、山科という医学生が、四六の借蚊帳を釣って寝て居るのである。 声を懸けて、戸を敲いて、開けて・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・がらくた壇上に張交ぜの二枚屏風、ずんどの銅の花瓶に、からびたコスモスを投込んで、新式な家庭を見せると、隣の同じ道具屋の亭主は、炬燵櫓に、ちょんと乗って、胡坐を小さく、風除けに、葛籠を押立てて、天窓から、その尻まですっぽりと安置に及んで、秘仏・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ 泥塗れのビショ濡れになってる夜具包や、古行李や古葛籠、焼焦だらけの畳の狼籍しているをくものもあった。古今の英雄の詩、美人の歌、聖賢の経典、碩儒の大著、人間の貴い脳漿を迸ばらした十万巻の書冊が一片業火に亡びて焦土となったを知らず顔に、渠・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・ ………… 空行李、空葛籠、米櫃、釜、其他目ぼしい台所道具の一切を道具屋に売払って、三百に押かけられないうちにと思って、家を締切って八時近くに彼等は家を出た。彼は書きかけの原稿やペンやインキなど入れた木通の籠を持ち、尋常二年生の・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・その時細君が取り出して来たいくつかの葛籠を開けたら、種々反古やら、書き掛けたものやらが、部屋中一杯になるほど出て来た。北村君はどんな破って了いたいようなものでも、自分の書いたものは、皆大切に、細君に仕舞わせて置いた。そんな一寸した事にも北村・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・縁語を用いたる句、春雨や身にふる頭巾著たりけりつかみ取て心の闇の螢哉半日の閑を榎や蝉の声出代や春さめ/″\と古葛籠近道へ出てうれし野のつゝじかな愚痴無智のあま酒つくる松が岡蝸牛や其角文字のにじり書橘のかは・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 俺の心に済まないから、どんなことがあっても、この金ばかりは決して使ってはならないと、お石に堅く云いつけて、彼は彼女に知らさないようにして、古葛籠の底へ隠してしまった。そして自分でも二度と見ようとはしなかったので、あっちこっち、散々索し・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
出典:青空文庫