・・・それは北京の柳や槐も黄ばんだ葉を落としはじめる十月のある薄暮である。常子は茶の間の長椅子にぼんやり追憶に沈んでいた。彼女の唇はもう今では永遠の微笑を浮かべていない。彼女の頬もいつの間にかすっかり肉を失っている。彼女は失踪した夫のことだの、売・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・自分はひとり、渡し船の舷に肘をついて、もう靄のおりかけた、薄暮の川の水面を、なんということもなく見渡しながら、その暗緑色の水のあなた、暗い家々の空に大きな赤い月の出を見て、思わず涙を流したのを、おそらく終世忘れることはできないであろう。・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・』そこで私は徐に赤いモロッコ皮の椅子を離れながら、無言のまま、彼と握手を交して、それからこの秘密臭い薄暮の書斎を更にうす暗い外の廊下へ、そっと独りで退きました。すると思いがけなくその戸口には、誰やら黒い人影が、まるで中の容子でも偸み聴いてい・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・(二人の乗っていた電車は、この時、薄暮 芥川竜之介 「片恋」
・・・今やわが心霊界はおもむろに薄暮に沈まんとす。予は諸君と訣別すべし。さらば。諸君。さらば。わが善良なる諸君。 ホップ夫人は最後の言葉とともにふたたび急劇に覚醒したり。我ら十七名の会員はこの問答の真なりしことを上天の神に誓って保証せんとす。・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・蚊柱の声の様に聞こえて来るケルソン市の薄暮のささやきと、大運搬船を引く小蒸汽の刻をきざむ様な響とが、私の胸の落ちつかないせわしい心地としっくり調子を合わせた。 私は立った儘大運搬船の上を見廻して見た。 寂然して溢れる計り坐ったり立っ・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・り行く川面から灌ぎ込むのが、一揉み揉んで、どうと落ちる……一方口のはけ路なれば、橋の下は颯々と瀬になって、畦に突き当たって渦を巻くと、其処の蘆は、裏を乱して、ぐるぐると舞うに連れて、穂綿が、はらはらと薄暮あいを蒼く飛んだ。 ・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・…………薄暮合には、よけい沢山飛びますの。」 ……思出した。故郷の町は寂しく、時雨の晴間に、私たちもやっぱり唄った。「仲よくしましょう、さからわないで。」 私はちょっかいを出すように、面を払い、耳を払い、頭を払い、袖を払った。茶・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ この日の薄暮ごろに奈々子の身には不測の禍があった。そうして父は奈々子がこの世を去る数時間以前奈々子に別れてしまった。しかも奈々子も父も家におって……。いつもならば、家におればわずかの間見えなくとも、必ず子どもはどうしたと尋ねるのが常で・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・ 遠い物干台の赤い張物板ももう見つからなくなった。 町の屋根からは煙。遠い山からは蜩。 手品と花火 これはまた別の日。 夕飯と風呂を済ませて峻は城へ登った。 薄暮の空に、時どき、数里離れた市で花火をあ・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
出典:青空文庫