・・・と家内に一言して、餌桶と網魚籠とを持って、鍔広の大麦藁帽を引冠り、腰に手拭、懐に手帳、素足に薄くなった薩摩下駄、まだ低くならぬ日の光のきらきらする中を、黄金色に輝く稲田を渡る風に吹かれながら、少し熱いとは感じつつも爽かな気分で歩き出した・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・いつでも脅かしに男下駄を玄関に出しておくのが、お京の習慣で、その日も薩摩下駄が一足出ていた。米材を使ってはあったけれど住み心地よくできていた。 不幸なお婆さんが、一人そこにいた。お絹の家の本家で、お絹たちの母の従姉にあたる女であったが、・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・構うものかと薩摩下駄を引掛けて全速力で四谷坂町まで馳けつける。門は開いているが玄関はまだ戸閉りがしてある。書生はまだ起きんのかしらと勝手口へ廻る。清と云う下総生れの頬ペタの赤い下女が俎の上で糠味噌から出し立ての細根大根を切っている。「御早よ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・暫く振りで薩摩下駄を穿くんだが、非常に穿き心地がいい。足の裏の冷や冷やする心持は、なまゆるい湯婆へ冷たい足の裏をおっつけて寒がっていた時とは大違いだ。殊に麻裏草履をまず車へ持ていてもらって、あとから車夫におぶさって乗るなんどは昔の夢になった・・・ 正岡子規 「初夢」
出典:青空文庫