今日七軒町まで用達しに出掛けた帰りに久し振りで根津の藍染町を通った。親友の黒田が先年まで下宿していた荒物屋の前を通った時、二階の欄干に青い汚れた毛布が干してあって、障子の少し開いた中に皺くちゃに吊した袴が見えていた。なんだ・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・曰ク七軒町、曰ク宮永町、曰ク片町等ハ倶ニ皆廓外ニシテ旧来ノ商坊ナリ。曰ク藍染町、曰ク清水町、曰ク八重垣町等ハ僉廓内ニシテ再興以来ノ新巷ナリ。爾シテ花街ハ其ノ三分ノ一ニ居ル。昔日ハ即根津権現ノ社内ニシテ而モ久古ノ柳巷ナリ。卒ニ天保ノ改革ニ当ツ・・・ 永井荷風 「上野」
・・・これを例すれば植物園門前の細流を見てその源を巣鴨に探り、関口の滝を見ては遠きをいとわず中野を過ぎて井の頭の池に至り、また王子音無川の流の末をたずねては、根岸の藍染川から浅草の山谷堀まで歩みつづけたような事がある。しかしそれはいずれも三十前後・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・そして石橋の柱に藍染川とかかれていた。その橋から先はもう小川について行くことができなかった。空の雲を水の面にうつして流れている水は町へ入ったそのあたりから左右を石崖にたたまれ、その崖上の藪かげ、竹垣の下をどこへか行っていた。わたしたち子供は・・・ 宮本百合子 「菊人形」
・・・ 打つ真似をする。藍染の湯帷子の袖が翻る。「早く飲みましょう」「そうそう。飲みに来たのだったわ」「忘れていたの」「ええ」「まあ、いやだ」 手ん手に懐を捜って杯を取り出した。 青白い光が七本の手から流れる。・・・ 森鴎外 「杯」
出典:青空文庫