・・・れたこの武生の中でも、その随一の旅館の娘で、二十六の年に、その頃の近国の知事の妾になりました……妾とこそ言え、情深く、優いのを、昔の国主の貴婦人、簾中のように称えられたのが名にしおう中の河内の山裾なる虎杖の里に、寂しく山家住居をしているので・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・ 元来――帰途にこの線をたよって東海道へ大廻りをしようとしたのは、……実は途中で決心が出来たら、武生へ降りて許されない事ながら、そこから虎杖の里に、もとの蔦屋のお米さんを訪ねようという……見る見る積る雪の中に、淡雪の消えるような、あだな・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・ が、一刻も早く東京へ――唯その憧憬に、山も見ず、雲も見ず、無二無三に道を急いで、忘れもしない、村の名の虎杖に着いた時は、杖という字に縋りたい思がした。――近頃は多く板取と書くのを見る。その頃、藁家の軒札には虎杖村と書いてあった。 ・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・、そんなことをして蜂の巣の在所を知ったことを思出した。彼は都会の人の知らない蜂の子のようなものを好んで食ったばかりでなく、田圃側に葉を垂れている「すいこぎ」、虎杖、それから「すい葉」という木の葉で食べられるのを生でムシャムシャ食ったことを思・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ 虎杖もなつかしいものの一つである。日曜日の本町の市で、手製の牡丹餅などと一緒にこのいたどりを売っている近郷の婆さんなどがあった。そのせいか、自分の虎杖の記憶には、幼時の本町市の光景が密接につながっている。そうして、肉桂酒、甘蔗、竹羊羹・・・ 寺田寅彦 「郷土的味覚」
・・・その岩塊の頭を包むヴェールのように灰砂の斜面がなめらかにすそを引いてその上に細かく刺繍をおいたように、オンタデや虎杖やみね柳やいろいろの矮草が散点している。 一合目の鳥居の近くに一等水準点がある。深さ一メートルの四角なコンクリートの柱の・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
・・・日曜ごとにK市の本町通りで開かれる市にいつもきまって出現した、おもちゃや駄菓子を並べた露店、むしろの上に鶏卵や牡丹餅や虎杖やさとうきび等を並べた農婦の売店などの中に交じって蓄音機屋の店がおのずからな異彩を放っていた。 器械から出る音のエ・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
出典:青空文庫