・・・もしこの時部屋の外から、誰か婆さんの容子を見ていたとすれば、それはきっと大きな蝙蝠か何かが、蒼白い香炉の火の光の中に、飛びまわってでもいるように見えたでしょう。 その内に妙子はいつものように、だんだん睡気がきざして来ました。が、ここで睡・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・それは××胡同の社宅の居間に蝙蝠印の除虫菊が二缶、ちゃんと具えつけてあるからである。 わたしは半三郎の家庭生活は平々凡々を極めていると言った。実際その通りに違いない。彼はただ常子と一しょに飯を食ったり、蓄音機をかけたり、活動写真を見に行・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・十六夜清心が身をなげた時にも、源之丞が鳥追姿のおこよを見そめた時にも、あるいはまた、鋳掛屋松五郎が蝙蝠の飛びかう夏の夕ぐれに、天秤をにないながら両国の橋を通った時にも、大川は今のごとく、船宿の桟橋に、岸の青蘆に、猪牙船の船腹にものういささや・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・その代り空の月の色は前よりも猶白くなって、休みない往来の人通りの上には、もう気の早い蝙蝠が二三匹ひらひら舞っていました。 二 杜子春は一日の内に、洛陽の都でも唯一人という大金持になりました。あの老人の言葉通り、夕日に・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・そのまた飛び方が両方へ表紙を開いて、夏の夕方に飛び交う蝙蝠のように、ひらひらと宙へ舞上るのです。私は葉巻を口へ啣えたまま、呆気にとられて見ていましたが、書物はうす暗いランプの光の中に何冊も自由に飛び廻って、一々行儀よくテエブルの上へピラミッ・・・ 芥川竜之介 「魔術」
・・・実際その時はそうして見たら、ふだんは人間の眼に見えない物も、夕暗にまぎれる蝙蝠ほどは、朧げにしろ、彷彿と見えそうな気がしたからです。 が、東京の町で不思議なのは、銀座通りに落ちている紙屑ばかりじゃありません。夜更けて乗る市内の電車でも、・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・の恐しさを思い知られ、「さてはその蝙蝠の翼、山羊の蹄、蛇の鱗を備えしものが、目にこそ見えね、わが耳のほとりに蹲りて、淫らなる恋を囁くにや」と、身ぶるいして申されたり。われ、その一部始終を心の中に繰返しつつ、異国より移し植えたる、名も知らぬ草・・・ 芥川竜之介 「るしへる」
・・・夕餉前のわずかな時間を惜しんで、釣瓶落としに暮れてゆく日ざしの下を、彼らはわめきたてる蝙蝠の群れのように、ひらひらと通行人にかけかまいなく飛びちがえていた。まともに突っかかって来る勢いをはずすために、彼は急に歩行をとどめねばならなかったので・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・が、羽音はしないで、すぐその影に薄りと色が染まって、婦の裾になり、白い蝙蝠ほどの足袋が出て、踏んだ草履の緒が青い。 翼に藍鼠の縞がある。大柄なこの怪しい鳥は、円髷が黒かった。 目鼻立ちのばらりとした、額のやや広く、鼻の隆いのが、……・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・一所、板塀の曲角に、白い蝙蝠が拡ったように、比羅が一枚貼ってあった。一樹が立留まって、繁った樫の陰に、表町の淡い燈にすかしながら、その「――干鯛かいらいし――……蛸とくあのくたら――」を言ったのである。「魚説法、というのです――狂言があ・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
出典:青空文庫