・・・省作は表口からは上がらないで、内庭からすぐに母のいるえん先へまわった。「おッ母さん、追い出されてきました」 省作は笑いながらそういって、えん側へ上がる。母は手の物を置いて、眼鏡越しに省作の顔を視つめながら、「そらまあ……」 ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 僕が帰りかけると、井筒屋の表口に車が二台ついた。それから降りたのは四十七、八の肥えた女――吉弥の母らしい――に、その亭主らしい男。母ばかりではない、おやじもやって来たのだ。僕はこらえていた不愉快の上に、また何だか、おそろしいような気が・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・そこへおげんの三番目の弟に連れられて、しょんぼりと表口から入って来た人がある。この人が十年も他郷で流浪した揚句に、遠く自分の生れた家の方を指して、年をとってから帰って来たおげんの旦那だ。弟は養子の前にも旦那を連れて御辞儀に行き、おげんの前へ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ と亭主に言われて、学士は四辺を見廻わした。表口へ来て馬を繋ぐ近在の百姓もあった。知らない旅客、荷を負った商人、草鞋掛に紋附羽織を着た男などが此方を覗き込んでは日のあたった往来を通り過ぎた。「広岡先生が上田から御通いなすった時分から・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ 暖簾外の女郎屋は表口の燈火を消しているので、妓夫の声も女の声も、歩み過る客の足音と共に途絶えたまま、廓中は寝静ってタキシの響も聞えない。引過のこの静けさを幸いといわぬばかり、近くの横町で、新内語りが何やら語りはじめたのが、幾とし月聞き・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・その刻限になると、前座の坊主が楽屋に来るが否や、どこどんどんと楽屋の太鼓を叩きはじめる。表口では下足番の男がその前から通りがかりの人を見て、入らっしゃい、入らっしゃいと、腹の中から押出すような太い声を出して呼びかけている。わたくしは帳場から・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・余と婆さんは同時に表口へ出て雨戸を開ける。――巡査が赤い火を持って立っている。「今しがた何かありはしませんか」と巡査は不審な顔をして、挨拶もせぬ先から突然尋ねる。余と婆さんは云い合したように顔を見合せる。両方共何とも答をしない。「実・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・の一隅で、若い看護婦が帳面に何か書いている。われわれが入って行った時、一寸頭をあげて見たきり、邪魔されず、落付いて書きつづけている。――「クララ・ツェトキンの名による産院」の表口を出て、今度は電車にのらず自分は一種の亢奮を感じながら暮が・・・ 宮本百合子 「モスクワ日記から」
・・・ 森さんの旧邸は今元の裏が表口になっていて、古めかしい四角なランプを入れた時代のように四角い門燈が立っている竹垣の中にアトリエが見えて、竹垣の外には団子坂を登って一息入れる人夫のために公共水飲場がある。傍にバスの停留場がある。ある日、私・・・ 宮本百合子 「歴史の落穂」
・・・へ表口から帰された女子失業群が、溢れ出した裏口は、真直、街頭につづいているのである。 新聞には強盗、追剥、怖しい記事が日毎に報告されなければならなくなって来た。復員軍人がそれらの犯罪を犯すということについて輿論が高くなって、宮内次官は「・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
出典:青空文庫