・・・「それが、さ、君忘れもせぬ明治三十七年八月の二十日、僕等は鳳凰山下を出発し、旅順要塞背面攻撃の一隊として、盤龍山、東鷄冠山の中間にあるピー砲台攻撃に向た。二十日の夜行軍、翌二十一日の朝、敵陣に近い或地点に達したのやけど、危うて前進が出来・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・なるほどここは要塞であると気が付く。要塞というものは必ず景勝の地であり、また必ず地学的に最も興味ある地点になっているのは面白い事実であろう。大神宮のすぐ下にソビエト領事館がある。これも面白い事実である。門の鉄扉の外側に子守が二、三人立って門・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・ むこうで遠く水に洗われているペテロパヴロスク要塞の灰色の低い石垣が見える。先が尖って、空に消えて見えないような金の尖塔が要塞内からそびえ立っていた。太陽はどっか雲の奥深いところにある。 窓の真下は冬宮裏の河岸だ。十九世紀ヨーロッパ・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・すると、日頃ツルゲーネフに目をつけていた官憲はその文章が不穏であるという咎で、ツルゲーネフを、ペテルブルグ要塞監獄へいれた。監禁は僅か一ヵ月であった。が、体の弱いツルゲーネフはすっかり打撃をうけ、しかも居住制限によってその後何年か自分の領地・・・ 宮本百合子 「ツルゲーネフの生きかた」
・・・ナロードニキ達をシベリアへ、要塞監獄へどしどし送る一方で、坊主が工場の中へ入りこみ、「凡て疲れたる者、重荷を負へるもの、我に来れ。我汝を憩はせん」と叫びながら「禁酒会」を組織しているのであった。一八九〇年代に入ってロシアに正当な労働運動が成・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・そのおかげで、一九〇五年のかの日曜日の後、ペテロパヴロフスクの要塞監獄に投獄された彼が命を全うしてイタリーへ政治的移民として住むことが出来たのであった。 ほぼ二十五年に亙るレーニンとの友情が結ばれたのは一九〇七年のことであった。「母」を・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの発展の特質」
・・・ それを理由として政府はゴーリキイをペテロパーヴロフスク要塞にぶちこんだ。政府はロシアばかりか外国でまで行われたゴーリキイ死刑反対の大示威運動におどろいて、余儀なく釈放したのであった。 不幸なロシア人民の解放運動資金を集めるためにゴ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの人及び芸術」
・・・ペトロパヴロフスクの要塞監獄監禁が、その行為に対する報復であった。この時ゴーリキイが死刑を免がれたのは、ゴーリキイ処刑反対の大デモンストレーションがロシア国内のみか、ヨーロッパ諸外国で行われたからであった。 翌年、解放運動の資金を得るた・・・ 宮本百合子 「逝けるマクシム・ゴーリキイ」
・・・ ゴーリキイの原稿、それから一九〇五年にゴーリキイが宣伝文をかいたというために検挙されたペテロパヴロフスクの要塞監獄の監房の写真、さらにトルストイやチェホフなどとあつまっている記念写真、レーニンと西洋将棋をさしている写真など興味ふかいも・・・ 宮本百合子 「私の会ったゴーリキイ」
・・・爺さんは生垣を指ざして、この辺は要塞が近いので石塀や煉瓦塀を築くことはやかましいが、表だけは立派にしたいと思って問い合わせてみたら、低い塀は築いても好いそうだから、その内都合をしてどうかしようと思っていると話した。 表通は中くらいの横町・・・ 森鴎外 「鶏」
出典:青空文庫