・・・お蔦 いいますよ。別れる切れると云う前に、夫婦で、も一度顔が見たい。(胸に縋見る度ごとに面痩せて、どうせながらえいられねば、殺して行ってくださんせ。お蔦 見納めかねえ――それじゃ、お別れ申します。早瀬 さあ、ここに金子がある・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・ 山へはいりかかった、赤い日が、今日の見収めにとおもって、半分顔を出して高原を照らすと、そこには、いつのまにか真紅に色づいた、やまうるしや、ななかまどの葉が火のように点々としていました。 紺碧に暮れていく空の下の祭壇に、ろうそくをと・・・ 小川未明 「手風琴」
・・・早く広島へ向けて立つに決めはしたものの餅屋の者にまるっきり黙ってゆく訳にゆかず、今宵こそ幸衛門にもお絹お常にも大略話して止めても止まらぬ覚悟を見せん、運悪く流れ弾に中るか病気にでもなるならば帰らぬ旅の見納めと悲しいことまで考えて、せめてもの・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・やがて小一里も来たところで、さあここらから川の流れに分れて、もう今まで昼となく夜となく眼にしたり耳にしたりしていた笛吹川もこれが見納めとしなければならぬという場所にかかった。そこで歳こそ往かないが源三もなんとなく心淋しいような感じがするので・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・おそらくこれが嫂に取っての郷里の見納めであろうとも思われたからで。 私たちは炉ばたにいて順にそこへ集まって来る客を待った。嫂が旧いなじみの人々で、三十年の昔を語り合おうとするような男の老人はもはやこの村にはいなかった。そういう老人という・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・子供の寝顔を、忘れないように、こっそり見つめている夜もある。見納め、まさか、でも、それに似た気持もあるようだ。この子供は、かならず、丈夫に育つ。私は、それを信じている。なぜだか、そんな気がして、私には心残りが無い。外へ出ても、なるべく早く帰・・・ 太宰治 「新郎」
・・・もちて曰くありげの青年巡礼、かたちだけでも清らに澄まして、まず、誰さん、某さん、おいとま乞いにお宅の庭さきに立ちて、ちりりんと鈴の音にさえわが千万無量のかなしみこめて、庭に茂れる一木一草、これが今生の見納め、断絶の思いくるしく、泣き泣き巡礼・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・愚鈍な人間共が、何も知らずに泰平がっている有様を、もう一息の寿命だ。見納めに見てやろう。ヴィンダー 俺の大三叉も、そろりそろりと鳴り始めたぞ。この掌に伝わる頼もしい震動はどうだ。ふむ。感じの鋭い空気奴、もう南風神に告げたと見える、雲が乱・・・ 宮本百合子 「対話」
出典:青空文庫