・・・それから看護婦を見返りながら、「じゃ十時頃にも一度、残りを注射して上げて下さい。」と云った。 看護婦は口の内で返事をしたぎり、何か不服そうな顔をしていた。 慎太郎と父とは病室の外へ、戸沢の帰るのを送って行った。次の間には今朝も叔・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・――その一人がどう思ったか、途端にこちらを見返りながら、にやりと妙に笑って見せた。千枝子はそれを見た時には、あたりの人目にも止まったほど、顔色が変ってしまったそうだ。が、あいつが心を落ち着けて見ると、二人だと思った赤帽は、一人しか荷物を扱っ・・・ 芥川竜之介 「妙な話」
・・・新蔵はこう云いながら、お敏と一しょに元来た石河岸の方へゆっくり歩き出しましたが、相手はやはり落着かない容子で、そわそわ後ばかり見返りますから、「どうしたんだ。まるで追手でもかかりそうな風じゃないか。」と、わざと調戯うように声をかけますと、お・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 奴は、旧来た黍がらの痩せた地蔵の姿して、ずらりと立並ぶ径を見返り、「もっと町の方へ引越して、軒へ瓦斯燈でも点けるだよ、兄哥もそれだから稼ぐんだ。」「いいえ、私ゃ、何も今のくらしにどうこうと不足をいうんじゃないんだわ。私は我慢を・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 河童の片手が、ひょいと上って、また、ひょいと上って、ひょこひょこと足で拍子を取る。 見返りたまい、「三人を堪忍してやりゃ。」「あ、あ、あ、姫君。踊って喧嘩はなりませぬ。うう、うふふ、蛇も踊るや。――藪の穴から狐も覗いて――・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・中なる三人の婦人等は、一様に深張りの涼傘を指し翳して、裾捌きの音いとさやかに、するすると練り来たれる、と行き違いざま高峰は、思わず後を見返りたり。「見たか」 高峰は頷きぬ。「むむ」 かくて丘に上りて躑躅を見たり。躑躅は美なりしな・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・と、軽くその頭を掌で叩き放しに、衝と広前を切れて、坂に出て、見返りもしないで、さてやがてこの茶屋に憩ったのであった。―― 今思うと、手を触れた稚児の頭も、女か、男か、不思議にその感覚が残らぬ。気は涼しかったが、暑さに、いくらか茫としたも・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・路傍の塵なんです。見返りもなさいますまい。――いいえ、いいえ……それを承知で、……覚悟の上でしました事です。私は女が一生に一度と思う事をしました。貴方、私に御褒美を下さいまし。」「その、その、その事だよ……実は。」「いいえ、ほかのも・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・妙なることを聞く者よとお通はわずかに見返りて、「鏡」とばかり答えたり。阿房はなおも推返して、「何の用にするぞ」と問いぬ。「姿を映して見るものなり、御僧も鼻を映して見たまえかし。」といいさま鏡を差向けつ。蝦蟇法師は飛退りて、さも恐れたる風情に・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・ お米は、莞爾して坂上りに、衣紋のやや乱れた、浅黄を雪に透く胸を、身繕いもせず、そのまま、見返りもしないで木戸を入った。 巌は鋭い。踏上る径は嶮しい。が、お米の双の爪さきは、白い蝶々に、おじさんを載せて、高く導く。「何だい、今の・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
出典:青空文庫