・・・一風変っていて氷のかいたのをのせ、その上から車の心棒の油みたいな色をした、しかし割に甘さのしつこくない蜜をかぶせて仲々味が良いので、しばしば出掛け、なんやあの人男だてらにけったいな人やわという娘たちの視線を、随分狼狽して甘受するのである。・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・処が彼が瞥と何気なしに其巡査の顔を見ると、巡査が真直ぐに彼の顔に鋭い視線を向けて、厭に横柄なのそり/\した歩き振りでやって来てるので、彼は何ということなしに身内の汗の冷めたくなるのを感じた。彼は別に法律に触れるようなことをしてる身に憶えない・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・しかし私はそいつが、別にあたりを見廻すというのでもなく、いかにも毎夜のことのように陰鬱な表情で溪からはいって来る姿に、ふと私が隣の湯を覗いた瞬間、私の視線にぶつかるような気がしてならなかったのである。 あるとき一人の女の客が私に話をした・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・独り相撲だと思いながらも自分は仮想した小僧さんの視線に縛られたようになった。自分はそんなときよく顔の赧くなる自分の癖を思い出した。もう少し赧くなっているんじゃないか。思う尻から自分は顔が熱くなって来たのを感じた。 係りは自分の名前をなか・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・かれはただそわそわして少しも落ちつかないで、その視線を絶えず自分の目から避けて、時々『あはははは』と大声に笑った、しかし七年前の哄笑とはまるで違っていた。 命じて置いた酒が出ると、『いや僕はもう飲んで来た、沢山沢山。』かれは自ら欺いた。・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・ 宇一は、顔に、直接、健二の視線を浴びるのをさけた。暫らくして彼は変に陰気な眼つきで健二の顔をうかゞいながら、「お上に手むかいしちゃ、却ってこっちの為になるまいことい。」と、半ば呟くように云った。 地主は小作料の代りに、今、相場・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・軍医は、白い顔を傷病者の視線から避け、わざと降る雪に眼を向けていた。 栗本は、ドキリとした。もう、如何に田口から委しいことをきいても、取りかえしはつかない、と感じた。 病室の入り口では護送に行く筈だった看護卒が防寒服をぬぎ、帯剣をは・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ちらと互いの視線が合っても、べつだん、ふたり微笑もしなかった。なんでもない顔をしていて、けれども、やはり、安心だった。 あの女に、おれはずいぶん、お世話になった。それは、忘れてはならぬ。責任は、みんなおれに在るのだ。世の中のひとが、もし・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・疎開先の青森から引き上げて来て、四箇月振りで夫と逢った時、夫の笑顔がどこやら卑屈で、そうして、私の視線を避けるような、おどおどしたお態度で、私はただそれを、不自由なひとり暮しのために、おやつれになった、とだけ感じて、いたいたしく思ったものだ・・・ 太宰治 「おさん」
・・・その頂点に向かう視線が山頂への視線を越しそうで越さない。風が来ると噴水が乱れ、白樺が細かくそよぎ竹煮草が大きく揺れる。ともかくもここのながめは立体的である。 毎日少しずつ山を歩いていると足がだんだん軽くなる。はじめは両足を重い荷物のよう・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
出典:青空文庫