・・・ 傍聴者は、みんな非常に真面目に黙って一心に下を覗き込んでいた。そういう人達の顔を見ると、下にはかなり真面目な重大な事柄が進行しているという事が分るような気がした。 入口を這入る時から、下の方で何だか恐ろしく大きな声で咆哮している人・・・ 寺田寅彦 「議会の印象」
・・・安全地帯に立って見ていた二、三人連れの大学生の一人が運転手の方を覗き込んで、大声で、「ソートーなもんじゃー」と云った。傍観者の立場からの批判を表明したのである。運転手は苦笑しながら、なおも、ゆるやかに警笛を鳴らした。乗客の自分も失笑したが、・・・ 寺田寅彦 「KからQまで」
・・・と途中に句を切ったアーサーは、身を起して、両手にギニヴィアの頬を抑えながら上より妃の顔を覗き込む。新たなる記憶につれて、新たなる愛の波が、一しきり打ち返したのであろう。――王妃の顔は屍を抱くが如く冷たい。アーサーは覚えず抑えたる手を放す。折・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・と余は満腹の真面目をこの四文字に籠めて、津田君の眼の中を熱心に覗き込んだ。津田君はまだ寒い顔をしている。「いやだいやだ、考えてもいやだ。二十二や三で死んでは実につまらんからね。しかも所天は戦争に行ってるんだから――」「ふん、女か? ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ が、秋山は、云わば、彼の痛い所を覗き込んででもいるように、その眼は道を見てはいなかった。 吹雪も、捲上道路も、何も彼は見ていなかった。何の事はない、脱線して斜になった機関車が、惰力で二十間も飛んだ、と云った風な歩きっ振りであった。・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・ セコンドメイトは、私が頭を抱えて濡れた海苔見たいに、橋板にへばりついているのを見て、「いくらか心配になって」覗き込みに来るだろう。「どうしたんだ、オイ、しっかりしろよ。ほんとに歩けないのかい」と、私の顔を覗き込みに来るだろう。そして、・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・ 吉里はその顔を覗き込んで、「よござんすか。ねえ兄さん、よござんすか。私ゃ兄さんでも来て下さらなきゃア……」と、また泣き声になッて、「え、よござんすか」 西宮は閉目てうつむいている。「よござんすね、よござんすね。本統、本統」と、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・すぐ、小走りに襖の際まで姿を現し、ひょいひょいと腰をかがめ、正直な赫ら顔を振って黒い一対の眼で対手の顔を下から覗き込み乍ら「はい、はい」と間違なく、あとの二つを繰返す。―― 気の毒な老婆は、降誕祭の朝でも、彼女の返事を一つで止め・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ 文吉が顔を覗き込んだ。「おい。亀。目の下の黒痣まで知っている己がいる。そんなしらを切るな」 男は文吉の顔を見て、草葉が霜に萎れるように、がくりと首を低れた。「ああ。文公か」 九郎右衛門はこれだけ聞いて、手早く懐中から早縄を出し・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・そうして、今は、二人は二人を引き裂く死の断面を見ようとしてただ互に暗い顔を覗き合せているだけである。丁度、二人の眼と眼の間に死が現われでもするかのように。彼は食事の時刻が来ると、黙って匙にスープを掬い、黙って妻の口の中へ流し込んだ。丁度、妻・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫