・・・ 五 妙子は勿論婆さんも、この魔法を使う所は、誰の眼にも触れないと、思っていたのに違いありません。しかし実際は部屋の外に、もう一人戸の鍵穴から、覗いている男があったのです。それは一体誰でしょうか?――言うまでもなく、・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・高い腰の上は透明なガラス張りになっている雨戸から空をすかして見ると、ちょっと指先に触れただけでガラス板が音をたてて壊れ落ちそうに冴え切っていた。 将来の仕事も生活もどうなってゆくかわからないような彼は、この冴えに冴えた秋の夜の底にひたり・・・ 有島武郎 「親子」
・・・小さい温い手が怖る怖る毛のおどろになって居る、犬の頭に触れた。次第に馴れて来て、その手が犬の背中を一ぱいに摩って、また指尖で掻くように弄った。 レリヤは別荘の方に向いて、「お母あさんも皆も来て御覧。私今クサカを摩って居るのだから」といっ・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ それも心細く、その言う処を確めよう、先刻に老番頭と語るのをこの隠れ家で聞いたるごとく、自分の居処を安堵せんと欲して、立花は手を伸べて、心覚えの隔ての襖に触れて試た。 人の妻と、かかる術して忍び合うには、疾く我がためには、神なく、物・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 水を恐れて雨に懊悩した時は、未だ直接に水に触れなかったのだ。それで水が恐ろしかったのだ。濁水を冒して乳牛を引出し、身もその濁水に没入してはもはや水との争闘である。奮闘は目的を遂げて、牛は思うままに避難し得た。第一戦に勝利を得た心地であ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・もう、その時から、少し気が触れとったらしい。」「気違いになったのだ、な?」「気違い云うたら、戦争しとる時は皆気違いや。君の云い方に拠れば、戦争というものは気違いが死を喰うのか、死が気違いを喰うのか分らん。ずどん云う大砲の音を初めて聴・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ 加うるに椿岳の生涯は江戸の末李より明治の初期に渡って新旧文化の渦動に触れている故、その一代記は最もアイロニカルな時代の文化史的及び社会的側面を語っておる。それ故に椿岳の生涯は普通の画人伝や畸人伝よりはヨリ以上の興味に富んで、過渡期の畸・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・その間にいろいろの人間の生活に触れてみました。しかし、いまやふるさとに帰るときがきたのであります。 町の人々は、不思議な景色が見えなくなると、家の方に帰りましたが、少女だけは、岩の上に立って、沖の方をいっしんに望んでいました。そのうちに・・・ 小川未明 「海からきた使い」
・・・そして襤褸夜具と木枕とが上り口の片隅に積重ねてあって、昼間見るととても体に触れられたものではない。私はきゅうに自分の着ている布団の穢さが気になって、努めて起きでた。 私もそこにしてあるとおり、自分の布団と木枕とを上り口の横に積重ねて、そ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・けれども、顔のことに触れられると、何がなしいい気持はしなかった。……その時、軽部は大きな鼻の穴からせわしく煙草のけむりを吹きだしながら、「このことは誰にも黙ってるんやぜ、分ったやろ、また来るんやぜ」 と、だめ押した。けれども、それき・・・ 織田作之助 「雨」
出典:青空文庫