・・・いずれ朝鮮へ帰る前には、もう一度君を訪ねるから。」 私はカッフェの外へ出ると、思わず長い息を吐いた。それはちょうど三年以前、千枝子が二度までも私と、中央停車場に落ち合うべき密会の約を破った上、永久に貞淑な妻でありたいと云う、簡単な手紙を・・・ 芥川竜之介 「妙な話」
・・・ その男を訪ねるに仔細はないが、訪ねて行くのに、十年越の思出がある、……まあ、もう少し秘して置こう。 さあ、其処へ、となると、早や背後から追立てられるように、そわそわするのを、なりたけ自分で落着いて、悠々と歩行き出したが、取って三十・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・その頃であった、或る若い文人が椿岳を訪ねると、椿岳は開口一番「能く来なましたネエ」と。禅の造詣が相当に深いこの若い文人も椿岳の「能く来なましたネエ」には老禅匠の一喝よりもタジタジとなった。 椿岳の畸行は書立てれば殆んど際限がないくらい朝・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 雑誌社へきけば判るだろうと思い、文芸春秋社へ行き、オール読物の編輯をしているSという友人を訪ねると、Sはちょうど電話を掛けているところだった。「もしもし、こちらは文芸春秋のSですが、武田さん……そう、武麟さんの居所知りませんか。え・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・私は藤沢さんを訪ねるとか、手紙を出すかして、共に悲哀を分とうと思ったが、仕事にさまたげられたのと、極度の疲労状態のため、果せなかった。莫迦みたいに一人蒲団にもぐり込んで、ぼんやり武田さんのことを考えていた。特徴のある武田さんの笑い声を耳の奥・・・ 織田作之助 「武田麟太郎追悼」
・・・けれども彼には何処と云って訪ねる処が無い。でやっぱし、十銭持つと、渋谷へ通った。 処が最近になって、彼はKの処からも、封じられることになった。それは、Kの友人達が、小田のような人間を補助するということはKの不道徳だと云って、Kを非難し始・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 拙者ばかりでなくこういう風であるから無論富岡を訪ねる者は滅多になかった、ただ一人、御存知の細川繁氏のみは殆ど毎晩のように訪ねて怒鳴られながらも慰めていたらしい。 然るに昨夕のこと富岡老人近頃病床にある由を聞いたから見舞に出かけた、・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・夕暮に僕は横浜野毛町に桂を訪ねると、宿の者が「桂さんはまだ会社です」というから、会社の様子も見たく、その足で会社を訪うた。 桂の仕事をしている場処に行ってみると、僕は電気の事を詳しく知らないから十分の説明はできないが、一本の太い鉄柱を擁・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・友だちを訪ねることが何か自分の気持にしっかりしたところのないことから来ており、それが友だちにハッキリ見られる気がした。 ――入っていって、「遊びに来た」と言う。その時相手がいかにも落着いた態度で出てきたら、手にペンでも持って出てきたら、・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・銀行へ行くことも止め、他の会社に人を訪ねることも止め、用達をそこそこに切揚げて、車はそのまま根岸の家の方へ走らせることにした。 大塚さんが彼女と一緒に成ったに就いては、その当時、親戚や友人の間に激しい反対もあった。それに関らず彼は自分よ・・・ 島崎藤村 「刺繍」
出典:青空文庫