・・・橋の上で話し声が聞こえるようだから、もしかと思って来ると先生一人、欄干に倚っかかッて空を仰いでいた。『オヤお一人?』『あア。』気のない返事。『幸ちゃん帰りましたの?』お梅も欄干に倚って時田の顔をじっと見ている。『今帰ったよ、・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・なんでも十時ごろまで外はがやがや話し声が聞えていましたがそのうちだんだん静かになりお俊もおとなしく内に引っ込んだらしかったのです。私は眠られないのと熱つ苦しいとで、床を出ましてしばらく長火鉢の傍でマッチで煙草を喫っていましたが、外へ出て見る・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・私は例のごとく頂上に登って、やや西に傾いた日影の遠村近郊をあかく染めているのを見ながら、持って来た書物を読んでいますと、突然人の話し声が聞こえましたから石垣の端に出て下を見おろしました。別に怪しい者でなく三人の小娘が枯れ枝を拾っているのでし・・・ 国木田独歩 「春の鳥」
・・・それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌りでもなかったが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語の声であっ・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・ しばらくするうちに、私は二階の障子のそばで自分の机の前にすわりながらでも、階下に起こるいろいろな物音や、話し声や、客のおとずれや、子供らの笑う声までを手に取るように知るようになった。それもそのはずだ。餌を拾う雄鶏の役目と、羽翅をひろげ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・まだ他に部屋を仕切って借りている人達もあると見え、一方の破れた襖の方からは貧しい話し声がボソボソボソボソ聞える。旅の行李の側に床を敷いてからも、場所の違ったのと、鼠の騒ぐのとで、高瀬はよく寝就かれなかった。彼の心はまだ半ば東京の方にあった。・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・私が階下の四畳半にいて聞くと、時々次郎の話し声がする。末子の笑う声も聞こえて来る。美術書生を兄に持った末子は、肖像の手本としてよくそういうふうに頼まれる。次郎の画作に余念のなかった時だ。 やがて末子は二階から降りて来た。梯子段の下のとこ・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・そしてそこへ、牢屋から罪人の話し声がつたわって来るような仕かけをさせて、いつもそこへ這入ってじいっと罪人たちの言ってることを立ち聞きしていました。 それから、自分の寝室へは、だれも近づいて来られないように、ぐるりへ大きな溝を掘りめぐらし・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・こちらの二階で話し声がしていても少しも目もくれず、根気よく同じような声を出して子供をゆすぶっている。しかし子供が可愛くてならぬという風でもない。ただ一心に何事かに凝り固まって世間の風が何処を吹くのも知る余裕がないといったようである。自分はこ・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・それで、盲者が、話し声の反響で室の広さを判断しうるような微妙な音色の差別を再現することはまだできないのであるが、それにもかかわらず適当な雑音の適当な插入が画面の空間の特性を強調する事は驚くべきものである。通り過ぎる汽車の音の強まり弱まり消え・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
出典:青空文庫