・・・その中にまた三浦が、沈んだ声で云いますには、『が、僕はまだ妻の誠実を疑わなかった。だから僕の心もちが妻に通じない点で、――通じない所か、むしろ憎悪を買っている点で、それだけ余計に僕は煩悶した。君を新橋に出迎えて以来、とうとう今日に至るまで、・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・人生に対して最も聡明な誠実な態度をとったからである。雲のごとき智者と賢者と聖者と神人とを産み出した歴史のまっただ中に、従容として動くことなきハムレットを仰ぐ時、人生の崇高と悲壮とは、深く胸にしみ渡るではないか。昔キリストは姦淫を犯せる少女を・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・牧師は誠実に女房の霊を救おうと思って来たのか、物珍らしく思って来て見たのか、それは分からぬが、兎に角一度来たのである。この手紙は牧師の二度と来ぬように、謂わば牧師を避けるために書く積りで書き始めたものらしい。煩悶して、こんな手紙を書き掛けた・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・言い換えれば人間愛に対してどれ程までに其の作家が誠実であり、美に対してどれ程までに敏感であり、正義に対してどれ程までに勇敢に戦うかということにある。 事件の異常なる場合に際して、私達のそれに出遇った時の感情や、意志がまた著しく働くという・・・ 小川未明 「芸術は生動す」
・・・ 誤れる社会に、正しい歴史の文献はあり得ない。いかに、今日、人事に対する批評判断のいゝ加減なることよ。これが、たゞちに記録となって、将来の歴史を編成するのである。 誠実に、生きるものは、もとより記録を残すと否とについて考えない筈だ。・・・ 小川未明 「自由なる空想」
・・・そして其れ等の何れの芸術に於ても此を一貫するものは誠実であると思う。此の色彩的な、音楽的な世界に立って楽しむという心、そこにも我等の胸に沁み入る誠実と淋しき喜悦とがある。又或るものは洗礼を受くべき暗黒轟々として刻々に破壊に対して居るという事・・・ 小川未明 「絶望より生ずる文芸」
・・・「君は、おばあさんをかばおうとしたばかりに、自分がけがをしたという話だが、私は、君の誠実に感心するよ。」「あのときは、ただ老人をひいてはたいへんだという心だけで、ほかのものが目に入らなかったのです。」 こういって、賢一は、まこと・・・ 小川未明 「空晴れて」
・・・しかし、日本の文学の考え方は可能性よりも、まず限界の中での深さということを尊び、権威への服従を誠実と考え、一行の嘘も眼の中にはいった煤のように思い、すべてお茶漬趣味である。そしてこの考え方がオルソドックスとしての権威を持っていることに、私は・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・しかしすぐれた倫理学を熟読するならば、いかに著者の人間が誠実に、熱烈に、条理をつくして、その全容を表現しているかを見出して、敬慕の念を抱かずにはいられないであろう。それは文芸の傑作に触れた感動にも劣るものではない。そしてその感染性とわれわれ・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・恋愛をもって終始し、恋愛に全情熱をささげつくし、よき完き恋人であることでつきることは、なるほど充分にロマンチックであり、美的同情に価し、またそれだけでも人格的誠実の証拠ではあるが、私は男子としてそれをいさぎよしとしない。青年がそれをもって満・・・ 倉田百三 「学生と生活」
出典:青空文庫