・・・ 箪笥や鏡台なんか並んでいる店の方では、昨夜お座敷の帰りが遅かったとみえて、女が二人まだいぎたなく熟睡していて、一人肥っちょうの銀杏返しが、根からがっくり崩れたようになって、肉づいた両手が捲れた掻巻を抱えこむようにしていた。 お絹は・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 会場の楽屋で、菜ッ葉服の胸をはだけ、両手を椅子の背中へたらしたかっこうにこしかけている長野は、一とめみてたち上りもしなかった。長野は演説するとき、かならず菜ッ葉服を着るが、そのときは興ざめたように、中途でかえってしまった。前座には深水・・・ 徳永直 「白い道」
・・・した長襦袢の膝の上か、あるいはまた船底枕の横腹に懐中鏡を立掛けて、かかる場合に用意する黄楊の小櫛を取って先ず二、三度、枕のとがなる鬢の後毛を掻き上げた後は、捻るように前身をそらして、櫛の背を歯に銜え、両手を高く、長襦袢の袖口はこの時下へと滑・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・有繋に雷鳴を恐れたと見えて両手は耳を掩うて居た。屋根の裏に白い牙をむいた鎌が或は電気を誘うたのであったろうか、小屋は雷火に焼けたのである。小屋に火の附いた時はもう太十は何等の苦痛もなく死んで居た筈である。たった一人野らに居た一剋者の太十はこ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
「美くしき多くの人の、美くしき多くの夢を……」と髯ある人が二たび三たび微吟して、あとは思案の体である。灯に写る床柱にもたれたる直き背の、この時少しく前にかがんで、両手に抱く膝頭に険しき山が出来る。佳句を得て佳句を続ぎ能わざるを恨みてか、・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・ 重吉は夢中で怒鳴った、そして門の閂に双手をかけ、総身の力を入れて引きぬいた。門の扉は左右に開き、喚声をあげて突撃して来る味方の兵士が、そこの隙間から遠く見えた。彼は閂を両手に握って、盲目滅法に振り廻した。そいつが支那人の身体に当り、頭・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・すると、私の声と同時に、給仕でも飛んで出て来るように、二人の男が飛んで出て来て私の両手を確りと掴んだ。「相手は三人だな」と、何と云うことなしに私は考えた。――こいつあ少々面倒だわい。どいつから先に蹴っ飛ばすか、うまく立ち廻らんと、この勝負は・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・と、声も戦いながら入ッて来て、夜具の中へ潜り込み、抱巻の袖に手を通し火鉢を引き寄せて両手を翳したのは、富沢町の古着屋美濃屋善吉と呼ぶ吉里の客である。 年は四十ばかりで、軽からぬ痘痕があッて、口つき鼻つきは尋常であるが、左の眼蓋に眼張のよ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・一寸、一例を挙げれば、先生の講義を聴く時に私は両手を突かないじゃ聴かなんだものだ。これは先生の人格よりか「道」その物に対して敬意を払ったので。こういう宗教的傾向、哲学的傾向は私には早くからあった。つまり東洋の儒教的感化と、露文学やら西洋哲学・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・主人は両手にて顔を覆いいる。娘の去るや否や、一人の男直に代りて入来る。年齢はおよそ主人と同じ位なり。旅路にて汚れたりと覚しき衣服を纏いいる。左の胸に突込んだるナイフの木の柄現われおる。この男舞台の真中男。はあ。君はまだこの世に生きている・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫