・・・ 真夜中頃に、枕頭の違棚に据えてある、四角の紫檀製の枠に嵌め込まれた十八世紀の置時計が、チーンと銀椀を象牙の箸で打つような音を立てて鳴った。夢のうちにこの響を聞いて、はっと眼を醒ましたら、時計はとくに鳴りやんだが、頭のなかはまだ鳴ってい・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・その紅がしだいに流れて、粟をつつく口尖の辺は白い。象牙を半透明にした白さである。この嘴が粟の中へ這入る時は非常に早い。左右に振り蒔く粟の珠も非常に軽そうだ。文鳥は身を逆さまにしないばかりに尖った嘴を黄色い粒の中に刺し込んでは、膨くらんだ首を・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・年上なるは幼なき人の膝の上に金にて飾れる大きな書物を開げて、そのあけてある頁の上に右の手を置く。象牙を揉んで柔かにしたるごとく美しい手である。二人とも烏の翼を欺くほどの黒き上衣を着ているが色が極めて白いので一段と目立つ。髪の色、眼の色、さて・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・その疵のある象牙の足の下に身を倒して甘い焔を胸の中に受けようと思いながら、その胸は煖まる代に冷え切って、悔や悶や恥のために、身も世もあられぬ思をしたものが幾人あった事やら。お前はジョコンダだな。その秘密らしい背景の上に照り輝いて現われている・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・第一みかけがまっ白で、牙はぜんたいきれいな象牙でできている。皮も全体、立派で丈夫な象皮なのだ。そしてずいぶんはたらくもんだ。けれどもそんなに稼ぐのも、やっぱり主人が偉いのだ。「おい、お前は時計は要らないか。」丸太で建てたその象小屋の前に・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・のと泣きぬれてました美くしさにみせられて頬をうす赤くしながらそのムッチリした肩を見ながら、ペーン ほんとうにマア、お前は美くしい体と心をもって居る事、私に御前の手の先だけさわらして御呉れ、その象牙ぼりの様な手の中に入れる事を――・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・外套のかげから水色のマントのかげの象牙ぼりの様な女の手をさぐってにぎった。しらんかおをして居る女のよこがおを見ながらソッとにぎりしめるとひやっこいするどい頭の髄まですき通す様な痛さがあたえられた。男はハッと手をひいて一足わきによって女を見た・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
・・・ 概念と、只、自分のみの築き上げた象牙の塔に立て籠って、ちょいちょい外を覗きながら感動して居りました。従って、私は何に感動して居るのか、又するべき筈だかと云う事、又その感動の種類は大抵分って居りました。ところが、人間が活きて動いて居る世・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・一度男の荒い掌がそこにさわってなでると、彼女は丁度荒い男の掌という適度な紙やすりでこすられた象牙細工のように、濃やかに、滑らかに、デリカになる。野生であった女は、もっと野生な、力ある男の傍で、始めて自分の軟らかさ、軽さ、愛すべきものであるこ・・・ 宮本百合子 「一九二五年より一九二七年一月まで」
・・・ それから舶来の象牙紙と封筒との箱入になっているのを出して、ペンで手紙を書き出した。石田はペンと鉛筆とで万事済ませて、硯というものを使わない。稀に願届なぞがいれば、書記に頼む。それは陸軍に出てから病気引籠をしたことがないという位だから、・・・ 森鴎外 「鶏」
出典:青空文庫