・・・青山原宿あたりの見掛けばかり門構えの立派な貸家の二階で、勧工場式の椅子テーブルの小道具よろしく、女子大学出身の細君が鼠色になったパクパクな足袋をはいて、夫の不品行を責め罵るなぞはちょっと輸入的ノラらしくて面白いかも知れぬが、しかし見た処の外・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 昭和五年、わたくしが初めて葛西橋のほとりに杖を曳いた時、堤の下には枯蓮の残った水田や、葱を植えた畠や、草の生えた空地の間に釣舟屋が散在しているばかりであったが、その後散歩するごとに、貸家らしい人家が建てられ、風呂屋の烟突が立ち、橋だも・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・普請中の貸家も見える。道の上には長屋の子供が五、六人ずつ群をなして遊んでいる。空車を曳いた馬がいかにも疲れたらしく、鬣を垂れ、馬方の背に額を押しつけながら歩いて行く。職人らしい男が二、三輛ずつ自転車をつらね高声に話しながら走り過る……。・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・長屋の端の一軒だけ塞がっていてあとはみんな貸家の札が張ってある。塞がっているのが大家さんの内でその隣が我輩の新下宿、彼らのいわゆる新パラダイスである。這入らない先から聞しに劣る殺風景な家だと思ったが、這入って見るとなおなお不風流だ。しかのみ・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・ 丁度、その頃赤門の近くに、貸家を世話する商売人があったので、そこへ行って頼んだ。三十円位で、ガスと水道のある、なるたけ本郷区内という注文をしたのである。 考えて見ると、それから一年位経つか経たないうちに、外国語学校教授で、英国官憲・・・ 宮本百合子 「思い出すこと」
・・・藤堂さんの森だったところは何軒も二階建の貸家が建ち並んでいる。表通りの小さい格子戸の家々の一画はとり払われて、ある大きい実業家の屋敷となっているが、三年前の二月ごろから表札が代って、姓だけを上の方にちょこんと馴れぬ筆蹟で書いたものが、太い石・・・ 宮本百合子 「からたち」
・・・―― それやこれや貸家物色中だが、今一番困ることは、家の寒いことだ。田舎らしく天井がそれはそれは高い。周囲ががらんとしている。そこへ寒い冬の空気が何と意気揚々充満することか! 冬の始め、寒さの威脅を感じ、私共は一つの小さい石油ストーブを・・・ 宮本百合子 「是は現実的な感想」
・・・とする必要は些も感じていないのですから、金持の土地のある人が、もう少し心持よい貸家を、安全な、リーゾナブルな条件の下に貸して下されば死ぬまで其処にいます。 何でも物が、あまり端的な売買関係にあると、全く人間的感興の欠けたものとなって仕舞・・・ 宮本百合子 「書斎を中心にした家」
・・・ 市外ならば、其程見出すのが困難でもないらしい。然し、自分等二人ぎりで当分はやって行こうとするのに、瓦斯も水道もない処で、どうしよう。要心のことも考えなければならない。 貸家住いと云うことを知らず、家のないなどと云うことが、いつ当面・・・ 宮本百合子 「小さき家の生活」
・・・ それがね何でも夏の中頃だと思ってましたけど一晩の中に貸家の札がおきまりにはすにはってあったんで大変な噂になりましたっけが酒屋の小僧がねこんな事を云ってましたよ。「あの『じじい』はあの年をつかまつって居て銘酒屋の女房と馳け落・・・ 宮本百合子 「千世子(三)」
出典:青空文庫