・・・すると車夫は十二銭の賃銭をどうしても二十銭よこせと言う。おまけに俺をつかまえたなり、会社の門内へはいらせまいとする。俺は大いに腹が立ったから、いきなり車夫を蹴飛ばしてやった。車夫の空中へ飛び上ったことはフット・ボオルかと思うくらいである。俺・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ですから車が橋を渡って、泰さんの家の門口へやっと梶棒を下した時には、嬉しいのか、悲しいのか、自分にも判然しないほど、ただ無性に胸が迫って、けげんな顔をしている車夫の手へ、方外な賃銭を渡す間も惜しいように、倉皇と店先の暖簾をくぐりました。・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・わたくしは初め行先を聞かれて、賃銭を払う時、玉の井の一番賑な処でおろしてくれるように、人前を憚らず頼んで置いたのである。 車から降りて、わたくしはあたりを見廻した。道は同じようにうねうねしていて、行先はわからない。やはり食料品、雑貨店な・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・ いいかけた処へ車掌が順送りに賃銭を取りに来た。赤いてがらの細君は帯の間から塩瀬の小い紙入を出して、あざやかな発音で静かに、「のりかえ、ふかがわ。」「茅場町でおのりかえ。」と車掌が地方訛りで蛇足を加えた。 真直な往来の両側に・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・そして車の中には桜と汐干狩の時節には、弁当付往復賃銭の割引広告が貼り出される。 * 放水路の眺望が限りもなくわたくしを喜ばせるのは、蘆荻と雑草と空との外、何物をも見ぬことである。殆ど人に逢わぬことである。平素市・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・ できるだけ賃銭を貰いたさに、普通一俵としてあるところを、二俵も背負っているので、そんなに力持ちでもない彼の肩はミシミシいうように痛い。 太い木の枝を杖に突いて、ポコポコ、ポコポコ破れた古鞋の足元から砂煙りを立てながら歩いて来た禰宜・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・お客さまがご窮屈でないように、お二人ずつ分けて進ぜる。賃銭はあとでつけた値段の割じゃ」こう言っておいて、大夫は客を顧みた。「さあ、お二人ずつあの舟へお乗りなされ。どれも西国への便船じゃ。舟足というものは、重過ぎては走りが悪い」 二人の子・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫