・・・何故と云えばお君さんは、その女髪結の二階に間借をして、カッフェへ勤めている間のほかは、始終そこに起臥しているからである。 二階は天井の低い六畳で、西日のさす窓から外を見ても、瓦屋根のほかは何も見えない。その窓際の壁へよせて、更紗の布をか・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・椿岳が小林姓を名乗ったのは名聞好きから士族の廃家の株を買って再興したので、小林城三と名乗って別戸してからも多くは淡島屋に起臥して依然主人として待遇されていたので、小林城三でもありまた淡島屋でもあったのだ。 尤もその頃は武家ですらが蓄妾を・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・この室には一月前まで露国の鉄道援護の士官が起臥していた。日本兵が始めて入った時、壁には黒く煤けたキリストの像がかけてあった。昨年の冬は、満州の野に降りしきる風雪をこのガラス窓から眺めて、その士官はウォツカを飲んだ。毛皮の防寒服を着て、戸外に・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・藤野のほかに三四人が一組になって山小屋に二週間起臥を共にした。山小屋といっても、山の崖に斜めに丸太を横に立てかけ、その上を蓆や杉葉でおおうた下に板を敷いて、めいめいに毛布にくるまってごろごろ寝るのである。小屋のすみに石を集めた竈・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・ 今日の有様では道徳と文芸と云うものは、大変離れているように考えている人が多数で、道徳を論ずるものは文芸を談ずるを屑しとせず、また文芸に従事するものは道徳以外の別天地に起臥しているように独りぎめで悟っているごとく見受けますが、蓋し両方と・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・日本の風習では、そんな場合、何故、娘なり息子なりの両親、同胞が助けないか、と云う質問、何故、僅かの間、良人の両親の家に起臥は出来ないのか、と云う疑問が起るかもしれません。 助けないのは、薄情からではない。親も、若い者達も、自分達の生活を・・・ 宮本百合子 「男女交際より家庭生活へ」
・・・ それからは三人が摂津国屋を出て、木賃宿に起臥することになった。もうどこをさして往って見ようと云う所もないので、只已むに勝る位の考で、神仏の加護を念じながら、日ごとに市中を徘徊していた。 そのうち大阪に咳逆が流行して、木賃宿も咳をす・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫