・・・ ウイリイは、馬を早めて、丘や谷をどんどん越して、しまいに大きな、涼しい森の中へはいりました。そして、馬の息を休めるために、ゆっくり歩きました。 そのうちにウイリイは、ふと、向うの方に何かきらきら光るものが落ちているのに目をとめまし・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・ 物の二十年も臥せったなりのこのおばあさんは、二人のむすこが耕すささやかな畑地のほかに、窓越しに見るものはありませなんだが、おばあさんの窓のガラスは、にじのようなさまざまな色のをはめてあったから、そこからのぞく人間も世間も、普通のものと・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・釣をしている時には、口を利かない友達に越したものはありません。プラタプは、スバーが黙っているので、大事にしました。そして、皆は彼女をスバーと呼ぶ代りに、自分丈はスと呼んで、親しい心持を表した積りでいたのです。 スバーは、いつでもタマリン・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・それに越したことがない。」もう、物語も何もあったものでない。きょうだいたちも、流石に顔を見合せて、閉口している。末弟は、更にがくがくの論を続ける。「空論をお話して一向とりとめがないけれど、それは恐縮でありますが、丁度このごろ解析概論をやって・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・晴れた空には林を越して電信柱が頭だけ見える。 男はてくてくと歩いていく。 田畝を越すと、二間幅の石ころ道、柴垣、樫垣、要垣、その絶え間絶え間にガラス障子、冠木門、ガス燈と順序よく並んでいて、庭の松に霜よけの繩のまだ取られずについてい・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ 引き越したホテルはベルリン市のまるであべこべの方角にある。宿帳へは偽名をして附けた。なんでもホテルではおれを探偵だと思ったらしい。出入をするたびに、ホテルの外に立っている巡査が敬礼をする。 翌日は休日である。議会は休みのはずである・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・ 黒田の居た二階の縁側に立って見ると、裏の塀越しにイタリア人の家の庭から縁側が見下ろされる。二間あるかなしの庭に、植木といったら柘榴か何かの見すぼらしいのが一株塀の陰にあるばかりで、草花の鉢一つさえない。今頃なら霜解けを踏み荒した土に紙・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・医者へもゆけず、ぐるぐるにおしまいた繃帯に血が滲み出ているのが、黒い塀を越して来る外光に映し出されて、いやに眼頭のところで、チラチラするのである。 恩知らずの川村の畜生め! 餓鬼時分からの恩をも忘れちまいやがって、俺の頭を打ち割るなんて・・・ 徳永直 「眼」
・・・けれども、出入りの八百屋の御用聞き春公と、家の仲働お玉と云うのが何時か知ら密通して居て、或夜、衣類を脊負い、男女手を取って、裏門の板塀を越して馳落ちしようとした処を、書生の田崎が見付けて取押えたので、お玉は住吉町の親元へ帰されると云う大騒ぎ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・彼は六十を越しても三四十代のもの、特に二十代のものとのみ交って居た。彼の年輩のものは却て彼の相手ではない。彼は村には二人とない不男である。彼は幼少の時激烈なる疱瘡に罹った。身体一杯の疱瘡が吹き出した時其鼻孔まで塞ってしまった。呼吸が逼迫して・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫