・・・二三日前に雪が降って、まだ雪解けの泥路を、女中と話しながら、高下駄でせかせかと歩いて行く彼女の足音を、自分は二階の六畳の部屋の万年床の中で、いくらか心許ない気持で聞いていた。自分の部屋の西向きの窓は永い間締切りにしてあるのだが、前の下宿の裏・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・すると変なことには、そんなとき僕の耳には崖路を歩いて来る人の足音がきまったようにして来るんです。でも僕はよし人がほんとうに通ってもそれはかまわないことにしている。しかしその足音は僕の背後へそうっと忍び寄って来て、そこでぴたりと止まってしまう・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・小松の温泉に景勝の第一を占めて、さしも賑わい合えりし梅屋の上も下も、尾越しに通う鹿笛の音に哀れを誘われて、廊下を行き交う足音もやや淋しくなりぬ。車のあとより車の多くは旅鞄と客とを載せて、一里先なる停車場を指して走りぬ。膳の通い茶の通いに、久・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・戸があくと同時に、足音静かに梯子段をおりて来て、「徳さんかえ?」と顔をのぞいたのは若い女であった。「待ったかね?」と徳二郎は女に言って、さらに僕のほうを顧み、「坊様を連れて来たよ」と言い足した。「坊様、お上がんなさいナ。早く・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・彼の足音をきゝつけると、二人は、「お父う。」と、両手を差し出しながら早速、上り框にとんで来た。「お父う、甘いん。」弟の方は、あぶない足どりでやって来ながら、与助の膝にさばりついた。「そら、そら、やるぞ。」 彼が少しばかりの砂・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・ 其時上手の室に、忍びやかにはしても、男の感には触れる衣ずれ足音がして、いや、それよりも紅燭の光がさっと射して来て、前の女とおぼしいのが銀の燭台を手にして出て来たのにつづいて、留木のかおり咽せるばかりの美服の美女が現われて来た。が、互に・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・が、足音を聞くとすぐ出てきた。「兄さん、お寄り……よ」そう言いながら、彼の顔を見て、「この前の……また、ひやかし?」と言った。「上るんだよ」ちょっと声がかすれた。「本当?」と女はきいた。 五 廊下の板が一・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・を束ねて降る驟雨酌する女がオヤ失礼と軽く出るに俊雄はただもじもじと箸も取らずお銚子の代り目と出て行く後影を見澄まし洗濯はこの間と怪しげなる薄鼠色の栗のきんとんを一ツ頬張ったるが関の山、梯子段を登り来る足音の早いに驚いてあわてて嚥み下し物平を・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・私たちが坂の下の石段を降りるのを足音できき知るほど、もはや三年近くもお徳は私の家に奉公していた。主婦というもののない私の家では、子供らの着物の世話まで下女に任せてある。このお徳は台所のほうから肥った笑顔を見せて、半分子供らの友だちのような、・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・老人の前を行く二人は、跡から来る足音を聞いた。そして老人の興奮した、顫えるような息づかいを自分達の項に感じた。しかし誰が跡から付いて来ようと構わない。兎に角目的のない道行である。心の中には反抗的な忿懣のような思想が充ちている。よしや誰と連に・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
出典:青空文庫