・・・人の足音や車の軋る音で察するに会葬者は約百人、新聞流でいえば無慮三百人はあるだろう。先ずおれの葬式として不足も言えまい。…………………アアようよう死に心地になった。さっき柩を舁き出されたまでは覚えて居たが、その後は道々棺で揺られたのと寺で鐘・・・ 正岡子規 「墓」
・・・そしてとどうやらこっちを見ながらわびるように誘うようになまめかしく呟いた。そして足音もなく土間へおりて戸をあけた。外ではすぐしずまった。女はいろいろ細い声で訴えるようにしていた。男は酔っていないような声でみじかく何か訊きかえしたりしていた。・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・陽子は足音を忍ばせ、いきなり彼女の目の下へ姿を現わしてひょいとお辞儀をした。「!」 思わず一歩退いて、胸を拳でたたきながら、「陽ちゃんたら」 やっと聞える位の声であった。「びっくりしたじゃないの。ああ、本当に誰かと思った・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ しばらくすると、この材木の蔭へ人のはいって来る足音がした。「姥竹かい」と母親が声をかけた。しかし心のうちには、柞の森まで往って来たにしては、あまり早いと疑った。姥竹というのは女中の名である。 はいって来たのは四十歳ばかりの男である・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・ 秋三は勘次の姿が裏の水壺の傍で揺れたのを見ると、黙って少し足音を忍ばせる気持で外へ出た。が、勘次を恐れている自分に気附いたとき、彼は一寸舌を出して笑ったが、そのまま北の方へ歩いていった。 勘次は裏庭から店の間へ来ると、南天の蔭に背・・・ 横光利一 「南北」
・・・何か仔細の有そうな様子でしたが問返しもせず、徳蔵おじに連られるまま、ふたりともだんまりで遠くもない御殿の方へ出掛て行ましたが、通って行く林の中は寂くッて、ふたりの足音が気味わるく林響に響くばかりでした。やがて薄暗いような大きい御殿へ来て、辺・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫