・・・また踏切の板も渡してはない。線路の上に立つと、見渡すかぎり、自分より高いものはないような気がして、四方の眺望は悉く眼下に横わっているが、しかし海や川が見えるでもなく、砂漠のような埋立地や空地のところどころに汚い長屋建の人家がごたごたに寄集っ・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・首をあげて見ると新坂の踏切で汽車に逢うたのであった。それからまたズーズーズーズー行く中に急に明りがさしたから、見ると右側に一面にスリガラスを入れた家がある。内側には灯が明るくついて居るので鉢植の草が三鉢ほどスリガラスに影を写してあざやかに見・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・ 二号の踏切まで行かずに左へ曲ると左側に古綿などちらかして居るきたない店がある。その店の前に腰掛けて居る三十余りのふっくりと肥えた愛嬌の女が胸を一ぱいにあらわして子供に乳を飲ませて居る。子供は赤いちゃんちゃんを着て居る。その傍に並んで腰・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・ 踏切りのこっちへ来ると、一太の朋輩や、米屋の善どんなどがいた。一太一人で納豆籠をぶらくって通ると、誰かが、「一ちゃんおいで」と呼んだ。米屋の善どんは眉毛も着物も真白鼠で、働きながら、「今かえんのかい?」と訊いた。「・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・ 汽車はすっかり市街に入った。踏切りを通過する毎にけたたましく警笛が鳴る。工場のひけ時で人通りの激しい夕暮の長い陸橋の上で電燈が燦きはじめた。田舎の間を平滑に疾走して来た列車は、今或る感情をもって都会へ自身を揉み入れるように石崖の下や複・・・ 宮本百合子 「東京へ近づく一時間」
・・・変な、構わない恰好をして行く途中踏切を横切る。よく東京から来た汽車に出会い、畑の中に佇み百姓娘のように通過する都会的窓々を見上げた。知った人が一瞬の間に、おや! と自分を認めたかもしれないと可笑しがった。今年は、郊外へ引越したし、多分何処へ・・・ 宮本百合子 「夏」
・・・ゴーリキイは二十四歳になる迄に、更にパン焼職人であり、カスピ海の漁業労働者であり、踏切番であり、弁護士の書記でありました。これらの生活の間でゴーリキイの見聞きしたものはどういうものだったでしょう。旧い野蛮なツァーのロシアで、民衆は才能も生活・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイについて」
出典:青空文庫