・・・ 抜手を切って行く若者の頭も段々小さくなりまして、妹との距たりが見る見る近よって行きました。若者の身のまわりには白い泡がきらきらと光って、水を切った手が濡れたまま飛魚が飛ぶように海の上に現われたり隠れたりします。私はそんなことを一生懸命・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・暗らくなった谷を距てて少し此方よりも高い位の平地に、忘れたように間をおいてともされた市街地のかすかな灯影は、人気のない所よりもかえって自然を淋しく見せた。彼れはその灯を見るともう一種のおびえを覚えた。人の気配をかぎつけると彼れは何んとか身づ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・――それに、もうやがて、庭を横ぎって、濡縁か、戸口に入りそうだ、と思うまで距たった。遠いまで小さく見える、としばらくして、ふとあとへ戻るような、やや大きくなって、あの土間廊下の外の、萱屋根のつま下をすれずれに、だんだんこなたへ引き返す、引き・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ふたりは、町を距たった、林の下にあった寺の墓地へまいりました。墓地は雪に埋まっていましたけれど、勇ちゃんは、木に見覚えがあったので、この下にお姉さんが眠っていると教えたのでした。「先生、私はお約束を守っておあいしにまいりました。それだの・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・毎夜のように彼の坐る窓辺、その誘惑――病鬱や生活の苦渋が鎮められ、ある距りをおいて眺められるものとなる心の不思議が、ここの高い欅の梢にも感じられるのだった。「街では自分は苦しい」 北には加茂の森が赤い鳥居を点じていた。その上に遠い山・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・というのは、その人影――K君――は私と三四十歩も距っていたでしょうか、海を見るというのでもなく、全く私に背を向けて、砂浜を前に進んだり、後に退いたり、と思うと立ち留ったり、そんなことばかりしていたのです。私はその人がなにか落し物でも捜してい・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・―― 私の眼はだんだん雲との距離を絶して、そう言った感情のなかへ巻き込まれていった。そのとき私はふとある不思議な現象に眼をとめたのである。それは雲の湧いて出るところが、影になった杉山のすぐ上からではなく、そこからかなりの距りを持ったとこ・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・の句を、日を距ててではありましたが、思い出しました。そして椎茜という言葉を造って下の五におきかえ嬉しい気がしました。中の七が降り残したるではなく、降り残してやだったことも新しい眼で見得た気がしました。 崖に面した窓の近くには手にとどく程・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・彼は、外界から、確然と距てられたところへ連れこまれた。そこには、冷酷な牢獄の感じが、たゞよっていた。「なんでもない。一寸話があるだけだ。来てくれないか。」病院へ呼びに来た憲兵上等兵の事もなげな態度が、却って変に考えられた。罪なくして、薄暗い・・・ 黒島伝治 「穴」
一 ブラゴウエシチェンスクと黒河を距てる黒竜江は、海ばかり眺めて、育った日本人には馬関と門司の間の海峡を見るような感じがした。二ツの市街が岸のはなで睨み合って対峙している。 河は、海峡よりはもっと広いひ・・・ 黒島伝治 「国境」
出典:青空文庫