・・・左近は思わず躊躇した。その途端に侍の手が刀の柄前にかかったと思うと、重ね厚の大刀が大袈裟に左近を斬り倒した。左近は尻居に倒れながら、目深くかぶった編笠の下に、始めて瀬沼兵衛の顔をはっきり見る事が出来たのであった。 二・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・いろいろと躊躇しています。王子はしきりとおせきになります。しかたなく胸のあたりの一枚をめくり起こしてそれを首尾よく寡婦の窓から投げこみました。寡婦は仕事に身を入れているのでそれには気がつかず、やがて御飯時にしたくをしようと立ち上がった時、ぴ・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・戸口で一秒時間程躊躇した。「あれだ。あれだ。」フレンチは心臓の鼓動が止まるような心持になって、今こそある事件が始まるのだと燃えるようにそれを待っているのである。 罪人は気を取り直した様子で、広間に這入って来た。一刹那の間、一種の、何物を・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 北海道人、特に小樽人の特色は何であるかと問われたなら、予は躊躇もなく答える。曰く、執着心のないことだと。執着心がないからして都府としての公共的な事業が発達しないとケナス人もあるが、予は、この一事ならずんばさらに他の一事、この地にてなし・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・ と謂うに任せ、渠は少しも躊躇わで、静々と歩を廊下に運びて、やがて寝室に伴われぬ。 床にはハヤ良人ありて、新婦の来るを待ちおれり。渠は名を近藤重隆と謂う陸軍の尉官なり。式は別に謂わざるべし、媒妁の妻退き、介添の婦人皆罷出つ。 た・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・這入りづらい訣はないと思うても、どうしても這入りづらい。躊躇する暇もない、忽門前近く来てしまった。「政夫さん……あなた先になって下さい。私極りわるくてしょうがないわ」「よしとそれじゃ僕が先になろう」 僕は頗る勇気を鼓し殊に平気な・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・お玉ヶ池に住んでいた頃、或人が不斗尋ねると、都々逸端唄から甚句カッポレのチリカラカッポウ大陽気だったので、必定お客を呼んでの大酒宴の真最中と、暫らく戸外に佇立って躊躇していたが、どうもそうらしくもないので、やがて玄関に音なうと、ピッタリ三味・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・彼の両親ははじめ躊躇した。婚約をしてもすぐまた戦地へ戻って行かねばならぬからである。しかし、先方はそれを承知だと、仲人に説き伏せられてみると、彼の両親もそしてまた彼も萬更ではなかった。 早速見合いがおこなわれた。まだ十八になったばかしの・・・ 織田作之助 「十八歳の花嫁」
・・・見終って先生は多少躊躇してる風だったが、「何しろ困りましたですなあ。しかしそういう御事情で出京なさったということでもあり、それにS君の御手紙にも露骨に言えという注文ですから申しあげますが、まあほとんどと言いたいですね。とてもあなたの御希・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・これは余程思切った事で、若し医師が駄目と言われたら何としようと躊躇しましたが、それでも聞いておく必要は大いにあると思って、決心して診察室へはいりました。医師の言われるには、まだ足に浮腫が来ていないようだから大丈夫だが、若し浮腫がくればもう永・・・ 梶井久 「臨終まで」
出典:青空文庫