・・・ お民はまた返事をせずに横を向いた。「兎に角きょうは用があるから。これから出掛けるのだから。おとなしくお帰んなさい。」と僕は立って入口の戸を明けた。 お民は身動きもせず悠然として莨の烟を吹いている。僕は再び「さア。」といって促す・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・偃蹇として澗底に嘯く松が枝には舞い寄る路のとてもなければ、白き胡蝶は薄き翼を収めて身動きもせぬ。「無心ながら宿貸す人に申す」とややありてランスロットがいう。「明日と定まる仕合の催しに、後れて乗り込む我の、何の誰よと人に知らるるは興なし。・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・そして身動き一つ、睫毛一本動かさないで眠りを装った。 電燈がパッと、彼の瞼を明るく温めた。 再び彼の体を戦慄がかけ抜け、頭髪に痛さをさえ感じた。 電燈がパッと消えた。 深谷が静かにドアを開けて出て行った。 ――奴は恋人で・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・と、お熊は吉里へ声をかけたが、返辞もしなければ身動きもせぬ。「しようがないね。善さん、早くお臥みなさいまし。八時になッたらお起し申しますよ」 善吉がもすこしいてもらいたかッたお熊は室を出て行ッた。 室の障子を開けるのが方々に聞え・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・女は男にくっついて立って居る。黙って一語を発せぬ胸の内には言うに言われぬ苦みがあるらしい。男も悄然として居る。人知れず力を入れて手を握った。直に艀舟に乗った。女は身動きもせず立って居た。こんな聯想が起ったので、「桟橋に別れを惜む夫婦かな」と・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・もちろんこんどは前よりひどく硝子につきあたってかっこうは下へ落ちたまましばらく身動きもしませんでした。つかまえてドアから飛ばしてやろうとゴーシュが手を出しましたらいきなりかっこうは眼をひらいて飛びのきました。そしてまたガラスへ飛びつきそうに・・・ 宮沢賢治 「セロ弾きのゴーシュ」
・・・その時刻にもかかわらず、省線は猛烈にこんで全く身動きも出来ず、上の子をやっと腰かけさせてかばっていた間に、背中の赤ちゃんは、おそらくねんねこの中へ顔を埋められ圧しつけられたためだろう、窒息して死んだ。 この不幸な出来ごとを、東京検事局で・・・ 宮本百合子 「石を投ぐるもの」
・・・帽をかぶった方は身動きもしない。これが寒山なのであろう。 閭はこう見当をつけて二人のそばへ進み寄った。そして袖を掻き合わせてうやうやしく礼をして、「朝儀大夫、使持節、台州の主簿、上柱国、賜緋魚袋、閭丘胤と申すものでございます」と名のった・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
・・・仰って、いまは、透き通るようなお手をお組みなされ、暫く無言でいらっしゃる、お側へツッ伏して、平常教えて下すった祈願の言葉を二た度三度繰返して誦える中に、ツートよくお寐入なさった様子で、あとは身動きもなさらず、寂りした室内には、何の物音もなく・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・そうしていつまでも身動きをしませんでした。私の眼には涙がにじみ出て来ました。湯加減のいい湯に全身を浸しているような具合に、私の心はある大きい暖かい力にしみじみと浸っていました。私はただ無条件に、生きている事を感謝しました。すべての人をこうい・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫