・・・ お米は、莞爾して坂上りに、衣紋のやや乱れた、浅黄を雪に透く胸を、身繕いもせず、そのまま、見返りもしないで木戸を入った。 巌は鋭い。踏上る径は嶮しい。が、お米の双の爪さきは、白い蝶々に、おじさんを載せて、高く導く。「何だい、今の・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ おとよは金めっきの足に紅玉の玉をつけた釵をさし替え、帯締め直して手早く身繕いをする。ここへ二十七、八の太った女中が、茶具を持って上がってきた。茶代の礼をいうて叮嚀にお辞儀をする。「出花を入れ替えてまいりました、さあどうぞ……」・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・小万はすでに裲襠を着、鏡台へ対って身繕いしているところへ、お梅があわただしく駈けて来て、「花魁、大変ですよ。吉里さんがおいでなさらないんですッて」「えッ、吉里さんが」「御内所じゃ大騒ぎですよ。裏の撥橋が下りてて、裏口が開けてあッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ちょうど世話物の三幕目でいざと云う場になる前に、色男の役をする俳優が身繕いをすると云う体裁である。 はてな。誰も客間には這入って来ない。廊下から外へ出る口の戸をしずかに開けて、またしずかに締めたらしい。中庭を通り抜ける人影がある。それが・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ 雌鴨も、連れの傍によって、白い瞼を開けたり、つぶったりしながら、一生懸命に身繕いをし始めた。 可愛いく胸を張り腰を据えて、如何にも優しい身ごなしで、油をぬったり、一枚一枚の羽をしごいたりして居る雌鴨の様子を、わきからだまって見・・・ 宮本百合子 「一条の繩」
・・・訝りながら床をはなれて忍藻の母は身繕いし、手早く口を漱いて顔をあらい、黄楊の小櫛でしばらく髪をくしけずり、それから部屋の隅にかかッている竹筒の中から生蝋を取り出して火に焙り、しきりにそれを髪の毛に塗りながら。「忍藻いざ早う来よ。蝋鎔けた・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫