・・・ 半壊れの車井戸が、すぐ傍で、底の方に、ばたん、と寂しい雫の音。 ざらざらと水が響くと、――身投げだ――――別嬪だ――――身投げだ―― と戸外を喚いて人が駆けた。 この騒ぎは――さあ、それから多日、四方、・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・我等が祖先のニュートンはいかにエライ者であったかと云う事を考えると隣の車井戸の屋根でアホーと鴉が鳴いた。 十二日 傘を竪にさす。雨は横に降る。 十三日 豆腐屋が来た。声の波の形が整わぬので新米という事が分る。 十四日 雪隠でプラ・・・ 寺田寅彦 「窮理日記」
・・・ 古風な鎖でたぐる車井戸へゆく右手に、十ばかり地蔵の並んだところがあった。その地蔵はどれも小さくて、丁度そこの前をとおってゆくわたしたち子供ぐらいの高さに、目鼻だちのはっきりしない、つるりとした頭の、苔のついた顔々をならべている。古びき・・・ 宮本百合子 「道灌山」
・・・裏の竹藪で雪を落してはね返る若い竹のザザザッと云う音が快く聞えて来る。車井戸をすっかり雪で包んでお菓子の様に甘そうに、あすこから水が出ようなどとは思われない形になって居る。 一廻りして帰りかけた時、コールテンの足袋を履いて居る足の指の先・・・ 宮本百合子 「農村」
出典:青空文庫