・・・ Mは長ながと寝ころんだまま、糊の強い宿の湯帷子の袖に近眼鏡の玉を拭っていた。仕事と言うのは僕等の雑誌へ毎月何か書かなければならぬ、その創作のことを指すのだった。 Mの次の間へ引きとった後、僕は座蒲団を枕にしながら、里見八犬伝を読み・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・そのまた枕もとには看護婦が一人、膝の上にひろげた病床日誌へ近眼の顔をすりつけるように、せっせと万年筆を動かしていた。 看護婦は洋一の姿を見ると、ちょいと媚のある目礼をした。洋一はその看護婦にも、はっきり異性を感じながら、妙に無愛想な会釈・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 保吉はストオヴの前に立った宮本と云う理学士の顔を見上げた。近眼鏡をかけた宮本はズボンのポケットへ手を入れたまま、口髭の薄い唇に人の好い微笑を浮べていた。「堀川君。君は女も物体だと云うことを知っているかい?」「動物だと云うことは・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・色の黒い、近眼鏡をかけた、幾分か猫背の紳士である。由来保吉の勤めている海軍の学校の教官は時代を超越した紺サアジ以外に、いかなる背広をも着たことはない。粟野さんもやはり紺サアジの背広に新らしい麦藁帽をかぶっている。保吉は丁寧にお時儀をした。・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・そこへ向うから近眼らしい四十前後の外国人が一人肩を聳かせて通りかかった。彼はここに住んでいる被害妄想狂の瑞典人だった。しかも彼の名はストリントベルグだった。僕は彼とすれ違う時、肉体的に何かこたえるのを感じた。 この往来は僅かに二三町だっ・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ さて、僕の向いあっている妙な男だが、こいつは、鼻の先へ度の強そうな近眼鏡をかけて、退屈らしく新聞を読んでいる。口髭の濃い、顋の四角な、どこかで見た事のあるような男だが、どうしても思い出せない。頭の毛を、長くもじゃもじゃ生やしている所で・・・ 芥川竜之介 「MENSURA ZOILI」
・・・が、今度は自分の級の英語の秀才が、度の強い近眼鏡をかけ直すと、年に似合わずませた調子で、「でも先生、僕たちは大抵専門学校の入学試験を受ける心算なんですから、出来る上にも出来る先生に教えて頂きたいと思っているんです。」と、抗弁した。が、丹・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・ もとの道を自分の家の方へ歩んで行くと、暗いところがあったり、明るいところがあったり、ランプのあかりがさしたり、電燈の光が照らしたり――その明暗幽照にまでも道のでこぼこが出来て――ちらつく眼鏡越しの近眼の目さきや、あぶなッかしい足もとから・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・変な好奇心からミイラなどを見てきたのを見抜かれたとみるみる赧くなった。近眼の紀代子は豹一らしい姿に気づくと、確めようとして眉の附根を引き寄せて、眼を細めていた。そんな表情がいっそう豹一の心を刺した。胃腸の悪い紀代子はかねがね下唇をなめる癖が・・・ 織田作之助 「雨」
・・・映っている硝子扉を押した途端、白地に黒いカルタの模様のついた薩摩上布に銀鼠色の無地の帯を緊め、濡れたような髪の毛を肩まで垂らして、酒にほてった胸をひろげて扇風機に立っていた女が、いらっしゃいとも言わず近眼らしく眼の附根を寄せて、こちらを見る・・・ 織田作之助 「世相」
出典:青空文庫