・・・そして、直ちに、人間の感情に迫るのである。 独り、それは、花の美ばかりでないだろう。たとえば、いゝ音にしてもそうだ。必ずしも、それは、高価な楽器たるを要しない。また、それを弾ずる人の名手たるを要しない。無心に子供の吹く笛のごときであって・・・ 小川未明 「名もなき草」
・・・六冊の本を置かなければ寝られないので、その晩も例の如くして、最早大分夜も更けたから洋燈を点けた儘、読みさしの本を傍に置いて何か考えていると、思わずつい、うとうととする拍子に夢とも、現ともなく、鬼気人に迫るものがあって、カンカン明るく点けてお・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・てきて、はたして秋山さんは来るだろうかと、田所さんたちに会うたび言い言いしていたところ、ちょうど、彼岸の入りの十八日の朝刊でしたか、人生紙芝居の記事を特種にしてきた朝日新聞が「出世双六、五年の“上り”迫る誓いの日、さて相手は?」来るだろうか・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・死ということは甚だ重要だから、何か書いて残したい気持はよく判るし、せめてそれによってやがて迫る鉛のような死の沈黙の底を覗く寂しさを、まぎらわしたいという気持も判るのだが、しかし、私は「重要なことは最も簡潔に描くべし」という一種の技巧論を信じ・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・こいつけしからんと他の水兵みな起ち上がって、サア出せいやなら十杯飲めと迫る。自分は笑いながらこれを見ていた。 水野は、これだけはご免だとまじめで言う、いよいよ他の者はこいつおもしろいと迫る、例の酒癖がついに、本性を現わして螺のようなやつ・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・翌日から自分は平時の通り授業もし改築事務も執り、表面は以前と少しも変らなかった、母からもまた何とも言って来ず、自分も母に手紙で迫る事すら放棄して了い、一日一日と無事に過ぎゆいた。 然し自分は到底悪人ではない、又度胸のある男でもない。され・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・何処かの田圃の方からでも伝わって来るような、さかんな繁殖の声は人に迫るように聞えるばかりでなく、医院の庭に見える深い草木の感じまでが憂鬱で悩ましかった。「何だか俺はほんとに狂にでも成りそうだ」 とおげんは半分串談のように独りでそんな・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・所謂民衆たちは、いよいよ怒り、舌鋒するどく、その役人に迫る。役人は、ますますさかんに、れいのいやらしい笑いを発して、厚顔無恥の阿呆らしい一般概論をクソていねいに繰りかえすばかり。民衆のひとりは、とうとう泣き声になって、役人につめ寄る。 ・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・と小声で言って迫る男があらわれました。「うるさいよ。」 おかみさんは顔をしかめ、「売り物じゃないんだよ。」 と叫んで追い払います。 それから、妻は、まずい事を仕出かしました。突然お金を、そのおかみさんに握らせようとしたの・・・ 太宰治 「たずねびと」
・・・ともかくも力強く人に迫るある物を感ずる。」「重大な事柄を話そうとする人にふさわしいように、ゆっくり、そして一語一句をはっきり句切って話す。しかし少しも気取ったようなところはない。謙遜で、引きしまっていて、そして敏感である。ただ話が佳境に・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫